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5.天女降臨
サーフィンのためにこの街に引っ越してきたという圭吾の肌は、白いシャツとのコントラストで一層黒く見えた。仲間と海岸近くの一軒家を借りているということだったけれど、自治体から補助が出ることもあってずいぶん安く借りているようだった。
「熊埜御堂さん、すごい経歴だったね」
「俺は自分がコックじゃないのが悔しいです。コックだったら手取り足取り教えてもらうのに」
「圭吾、さっき紅葉さんに見とれてたでしょ。年上が好きなの?」
「そういうんじゃないですよ。恋愛っていうよりテレビの中の人が目の前にいるみたいな感じ。天女降臨、みたいな」
「天女降臨、ねえ」
なるほど、と思いながらわたしは摘み終えたイタリアンパセリとタイムを手に厨房に戻った。
「オープンします。よろしくお願いします」
濱田の声のあと「いらっしゃいませ」とフロアの三人の声が聞こえる。
開店してからも紅葉のことが頭から離れなかった。慌ただしく立ち働くなかで、ふと息をついた瞬間に天女が舞い戻ってくる。紅葉から溢れる出る自信はわたしにはないものだ。数々の経験に裏打ちされた自信。僻みっぽくなるよりも、祖父の言うように彼女から多くのものを吸収しなければいけない。
九時半にはすべてのお客様を送り出し、片付けを終えて最後に店に残ったのはわたしと恭明だった。更衣室を出たあと厨房をのぞくと、一角だけ灯された明かりの下で彼はノートパソコンを開いている。
「楓、先に帰ってもいいよ」
彼は目頭を抑えてギュっと目をつむったあと、凝り固まった体をほぐすように両手をあげて伸びをする。わたしは後ろからその腕をつかみ、ディスプレイに目をやった。
「紅葉さんの人件費は本部につくのよね」
「ああ。それにしても意外だったな」
折りたたみ式のスツールに腰掛けた恭明は、のけぞるように顎をあげてわたしを見た。冬場であれば肩越しに腕を巻きつけるところだけれど、冷房が効いていてもなかなかそういう気にならない。わたしは彼の腕を離し、作業台にもたれかかった。
恭明の手がキーボードに戻り、カチャカチャと音をさせる。
「オーベルジュ、本当にやるとは思わなかったな」
「自分の母親ながら、あの人が何考えてるのかまったく分かんない。おじいちゃんのことなら分かるのに」
恭明がクスッと笑い声をもらした。
オーベルジュをやりたがっていたのは母ではなく祖父だ。けれど、それは今日祖父から聞いたような話ではなく、このメゾン・ド・アリスに宿泊施設を増築してオーベルジュにできないかというものだった。一日数組しか泊まれないオーベルジュ。現状でも利益が出ていないのにどうやって採算をとるのかと、母はまったく耳を貸そうとしなかった。
脳梗塞になって以来祖父はその話をまったくしなくなり、入れ替わるように聞こえてきたのが「会社がホテルをする」とか「オーベルジュをする」という噂。メゾン・ド・アリスは会社の中でも独立した存在で他店との人事交流は基本的にないけれど、客として店を訪れた他店のスタッフが「あの話は本当ですか」と尋ねてきたのは、「オーベルジュをするのなら会長」と思っているからだろう。
ティーズアクトの高価格帯の飲食店といえばメゾン・ド・アリスの他にカニ料理店と焼肉店。メゾン・ド・アリス以外、オーベルジュで提供する料理をつくれる店はティーズアクトにはない。
「儲かるのかな。オーベルジュ」
何気なく問いかけると、恭明は「さあ」と肩をすくめた。
「やり方によるだろう。海沿いって聞いたけど、どこらあたりのことなのか」
「来年って言ってたよね。一年後、あたしたちは何やってんのかな」
「仕事?」
「他には?」
結婚、という言葉が恭明の口から出るだろうかと、ほんの一瞬だけ考えた。
わたしと恭明との距離が縮まったのは祖父が入院した時だ。何度もふたりで病院を訪れ、祖父の抜けたメゾン・ド・アリスを励ましあって続ける中で、互いを男女として求めたのはとても自然なことだったように思える。
「他に? じゃあ店を休んで旅行にでも行くか」
「ほんとに?」
どうかなあ、と恭明は笑った。まったくそのつもりがないのは分かっている。世の中の人たちが遊んでいるときに働くのがレストラン。稼ぎどきの夏休みに恭明が休みたいと言うはずがなかった。そもそも彼は料理をしているのが一番好きな人なのだ。
ノートパソコンを閉じた恭明は、「帰るか」と立ち上がって時計を確認した。わたしが幼い頃からあるアナログ式の掛け時計は十一時になろうとしている。電気を消して外に出ると、星が恐ろしいほど空を埋め尽くしていた。月の姿は見当たらない。恭明が懐中電灯をともし、わたしは彼に寄り添って駐車場に向かった。
「この時間はやっぱり怖いね」
「幽霊が出るか?」
「そういうんじゃなくて、猪とか猿とか鹿とか」
「じゃあ、山根さん連れてこないと」
山根さんは猟師だ。隣町に住んでいて、仕留めた鹿や猪をメゾン・ド・アリスに卸している。
暗闇の中に、わたしの車と恭明の車が一台分のスペースを開けてとまっていた。「気をつけて帰れよ」という恭明の腕を掴んだままでいると、彼は軽く唇を重ねてわたしの頭をなでる。
「おやすみ」
わたしは手を離し、それぞれの車で暗い山道を下った。
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