6.社長の電話

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6.社長の電話

 九月になったばかりのその日の朝、空はどんよりと雲に覆われていた。  八月の最終週あたりから夏休みの忙しさはなくなり、メゾン・ド・アリスもここ数日予約で満席になることはない。日曜日の今日は久しぶりのフル回転だったけれど、盆あたりと違って地元の常連客が多いようだった。  パンとスープで朝食を済ませ、身支度を整えて鞄を手にしたとき着信音が鳴った。発信者には『小森敦子』とあり、わたしはひとつため息を吐いて電話をとる。 「楓?」  母はこちらが言葉を発する前に喋りはじめた。 「楓、明日休みでしょ。ちょっと本部に顔出してくれない?」  わたしが本部に顔を出すということを母は「仕事」と思っていない。母本人は休みらしい休みもなく、仕事とプライベートが区別できるような立場でもないのだが、身内であるわたしにも同じことを求められるのは正直しんどい。 「明日は予定入れちゃってる」 「一時間くらいだから都合つけなさいよ。九時半ね。午前中には終わるから」  こちらの言い分には聞く耳を持たないから母の電話は受けたくないのだ。 「仕事なの? それとも家のこと?」 「オーベルジュの件は聞いてるわよね。そこ、業者の人と見に行くから楓も一緒に来なさい」  一瞬言葉に詰まった。 「それは、あたしには関係ないよね。熊埜御堂さんを連れて行ったらいいじゃない」 「彼女も来るわよ。楓も見といた方がいいでしょ?」  なぜ、と問い返せばこれまで何度も繰り返してきた不毛な言い合いになるだけだった。  母がわたしに望んでいるのは一人前の料理人になることではなくティーズアクトを取り仕切る側の人間になること。わたしはメゾン・ド・アリスで働きたいと思っているけれど、ティーズアクトの経営に関わりたいとは思っていない。入社する前にも、した後も何度も伝えてきたことだ。 「わかった。九時半に会社ね」  スマートフォンの向こうに聞こえるようため息を吐いた。その程度の抵抗しかできない自分が不甲斐ないけれど、オーベルジュがどこに建つのかは気になっている。ふと、昨日見た新聞記事のことを思い出した。 「ねえ、昨日の新聞に出てたのは関係あるの?」 「リゾートホテル誘致の記事? 楓、ちゃんと記事読んでないでしょ。うちが予定してる場所とはちょっと離れてるわね。まあでも、流れが来てるからやる気になったってとこかな。楓も、そっち辞めて移って来たら?」 「行かない」  今度は向こうからため息が聞こえた。 「バカね。あたしのやり方が気に食わないのは知ってるけど、それだけで反発してたらチャンスも棒に振ることになるわよ。伊東君((恭明))と離れるのが嫌なだけでしょ。感情だけで結論出す前にちゃんと考えなさい」  じゃあ明日ね、と母は強引に電話を切ってしまった。  こうして会社のことが絡んでくるから、恭明が「結婚」という言葉を口にしないのだとわたしは思っている。わたしが自分から口にできないのはそれが理由だ。  恭明と結婚することになれば、母はおそらくふたりでティーズアクトを継ぐことを求めてくる。けれど、恭明はそれを望んでいない。祖父と同じようにみずからの手で生み出せる範囲の料理とサービスを、日々丁寧に積み重ねていきたいと考えている。  気を取り直して家を出ると、日曜日の街にはほとんど人影がなかった。大学がすぐ近くにあるけれど、夏休みで帰省しているのか最近は平日でも学生の姿がほとんどない。通勤ラッシュの混雑もなく、二十分少々でメゾン・ド・アリスに到着した。
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