恋々とけぶる

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 地元の大学は物足りなくて退屈ではあったけれど、平穏な日々。  大学の友人は私とあなたを見て、 「あんたたちはニコイチだからねえ」  なんてよく云ってたね。  その通り。喧嘩したことはない。離れたことはない。  誰も知らなくていい。知る必要はない。  私たちの秘密にどうか誰も水を差さないで。 『親友』という言葉一つで、私はあなたの傍らにいるありとあらゆる権利を獲得し、その言葉に幾度も助けられ、また甘えてもいた。  でも同じぐらいその響きに絶望してもいた。  あなたはどうだったかな。  結婚が娘の幸せに繋がると信じてやまない、秘密を知らないあなたの両親。  常識と健全の世界に生きるいい人たちだった。あなたが彼等の願いを叶えなければと思ったのも、無理からぬこと。  大学卒業を控えたある日、あなたを訪ねて行くと玄関前で、狐みたいな顔をした男とすれ違った。玄関で男から靴べらを受け取ったあなたが、よそゆきの笑顔をはりつけて彼を見送っていた。 「あの人と見合いをしたの」  あなたは疲れきった声で庭の山茶花(さざんか)を鋏で切った。 「お父さんが、昔お世話になった人の息子なの。私のことを写真で見て気に入ったって。大学を卒業したらすぐにでも一緒になろうって。どうしても断れなかったの」  とてつもなくあなたが遠くに見えた。今度こそあなたが本当に誰かのものになってしまう。胸を焦がす危機感に襲われた。  それから私は何度か、通りがかりを装ってあなたの家の庭を覗き込んだことがある。  蝋梅(ろうばい)の木枝の間から見えたのは、気安くあなたの肩を抱くあの狐顔の男。  あなたのことを呼び捨てにした上に、『お前』だなんて。  その男はあなたを幸せになんかしない。  真冬の冷気を吸い込んで、私、胸を燃やしたの。  季節は無情。  白木蓮(はくもくれん)が零れ、桜が舞い、藤の花が実って落ちる。  あなたの結婚式は六月半ば。ジューンブライド。そう決まってた。  逃避行を云い出したのは意外にもあなた。  両親の愛を裏切って、結婚という平明な世界と繋がるための切符を(なげう)って、 「それでもあなたといれば孤独じゃない」  そう云ってくれたから。  明くる朝、紫陽花色づく小雨の降る道を、あなたと走った。  澄んだ肌寒い空気をいっぱいに吸い込んで、雨風を頬に受けて、ああ生きてるって思えた。  蓮花の指輪で無言の誓い。  あなたの白い手首が私の方へ伸びてくる。  その視線に私の体は痺れる。  このまま時が止まればいいのに。  あなたは私の万花。煌然たる陽の光。強くしなやかな樹木。青々と茂る緑の葉。子供たちが跳ね上げる光を孕んだ湧水。魂を慰める静謐な夜の風。万物の命が放つ光輝そのもの。  そして私の運命。  私はあなたがここにいるという事実以外、何も要らない。  その笑顔と憂いと寝息。それさえ身近にあれば、私はどこでだって生きていける。    夜行バスが行き着いたのは、かつて子供の私が住んだことのある町。  生活費を稼ぐために仕事を探した。私は化粧品を扱う町工場で、あなたはテレフォンオペレーター。  流転する日々の中でも愛だけは変わらない。  あなたの婚約指輪を質屋に流して、つくった生活の下地ではあったけど、あのあばら家での三か月。あれが、神様が私たちにくれた薔薇色の日々。  幸せはテーブルに敷く白いリネンの中に、二人手を繋ぐ傘の下に、あなたとたわむれる寝台(ベッド)の上に、あなたのつくった二日目のカレーの香りに、あなたが下着を脱ぐ瞬間に、その眼尻の皺に、口に含む乳房の柔らかさに。  ワインをデカンタージュする私の後ろで、ふいにあなたが生み出すグラスハープ。  雨音が聞こえたらあなたは決まってジーン・ケリーのように唄い出す。  笑いたくなる気持ちと、泣きたくなる気持ちはどこか似ている。
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