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忘れかけていた。
私たちの生活は川を流れる笹舟のようなもの。いつ転覆してもおかしくはない。
秋桜の盛り、仕事終わりのあなたが来るのを喫茶店で待っていると、携帯電話が鳴った。
私は転がるように店を出て、切迫感に衝き動かされて、なりふり構わず全速力で走りだした。
ああ、あんなにも近くにいたのに。毎日毎日あなたの体を愛撫していたのに。
私、知らなかったの。
あなたが逃避行を云い出した前日。
あの卑しい狐男が、婚前交渉はしたくないと頑なに拒むあなたの頬を張り、縛りつけて、無理矢理に思いを遂げていただなんて。
まさか、あなたのお腹に赤ちゃんがいたなんて。
どうして云ってくれなかったの、どうしてどうして……。
あなたの体を穢された悲しみが、ぐるぐると私を呑み込んだ。
だめだ、だめだ。内側から体を食い破られそうだ。鼻からも口からも憎しみの呼吸しか出てこない。
病院に到着すると、彼女の寄る辺ない視線が、私の震える心臓を貫いた。
あなたは泣きながら私に謝った。ごめんねごめんね……。
涙がおさまり病院から帰る途中、俄雨に降られた私たち。九月のはじまり。夏の終わりを告げる雨はまだぬるくて、大粒で、叩きつけるように激しかった。
「神様からの石礫みたい」
「いいえ違う。この雨音、天使たちからの拍手喝采よ」
きっとこれは祝福の雨。清めの雨。
私が人生で最上に誇れる決心をしたのはこの時。
「ねえ、聞いて。生まれてくる子に罪があるもんですか。私とあなたで愛を注ぐのよ。私はこれでも子供が大好きよ。あなたの赤ちゃんなら尚のこと大事にするわ。きっときっと元気で可愛い子が生まれるわ」
腹の底に煮えたぎるマグマを抱えながらも、雨に打たれながらも、私、そう云えた。
肚を決めたの。
あなたのためなら、私は何度だって強く生まれ変われる。
どんなことが起きても、ずっとあなたの一番近くにいる。
たぶん、あの時ほど私が人生で強くなれた瞬間はない。
それが、何故あんなことになったのか。
神様、罰するなら私を選ぶべきだったのに。
生命の摂理に逆らおうとする異端の責めを負うべきは私一人だけだったのに。
四か月目、赤ちゃんの命の音はある時、ふつりと途絶えた。
「妊娠初期には珍しいことではありません。どうかご自身を責めないで」
そう医者は云っていたけれど、あまりのショックにあなたはその日から声が出なくなった。
一寸先は闇。
私たちは神様にあっという間に奈落へ突き落された。
あなたの深い悲しみの前で私はあまりにも非力で、同じように言葉を失い、涙するしかなかった。
そんな中、恐れていたことが起きた。
私が町工場の仕事に出ていた、天気上々のあの日。
私たちの居所をあの男が探し当て、私がいない隙にアパートに押し入って、あなたを力尽くで連れ戻そうとした。
無我夢中で逃げ出したあなたは、身一つ。声も出せず、靴も履かず、財布も電話も何もかも置いて。
アパートからすぐのその国道は四車線。古い歩道橋の下、普段から車だけでなく横断者も多い道。いつもなら自転車や車椅子と共に横断できたはずなのに、呪われたようにその時道を渡っていたのはあなた一人。
無慈悲な運命に引き寄せられたのか、加速したまま角を曲がってきたトラックが、横断していたあなたの体を跳ね飛ばした。
あなたは即死だった。折れた肋骨が心臓に突き刺さって。
それから。
それから?
私はどうやってあなたの死を知ったのだろう。
おかしなもので苦しみも悲しみも何も憶えていないの。たぶん、泣きもしなかった。
一つ確かだったのはあなたの顔は間違いなく最後まで美しかったこと。
閉ざされた瞼に最後のキスをして、愛してると心で云って、あなたの実家に電話をかけた。
方々から罵詈雑言を浴びせられると思っていたのに、私の身には何も起きなかった。
婚約者が乗り込んでくる直前、あなたが手紙を書いていたことを私は後から知った。
あなたは分かっていたの?二人の生活がじきに終わりを告げること。
『親友には何の罪もありません。未熟な私は嫁ぐことへの不安から、家を飛び出し、しかし生活能力のないために、私は親友を巻き添えにしました。長い付き合いの中で、親友の人一倍優しい性格を知っていた私は彼女の美質につけ込んだのです。私の嘘を信じてここまで一緒にいてくれたのです。彼女ほど魂の美しい人はいません。どうか彼女を責めないで下さい。親友に心からの懺悔を、そして友愛を』
今も私、雨の中であなたの声を思い出しているの。
たとえ自分の名前が分からなくなったって、あなたの声だけは、ほら、すぐに思い出せる。
五十になっても、六十になっても、そう、たった今、この時も。
今も待っているの。珈琲を飲みながら、あなたがやって来るのを。
あの日、あなたを待つ喫茶店で渡すはずだった指輪。
同じ日に赤ん坊が生まれることを知って、出産費用の足しにと、すぐ売るつもりでいたけど、なかなか決心がつかなかった。今も私の手許にあるの。
あなたと同じ。
私の中のあなたも数十年の日々の蓄積に消え入ることなく、今も私の傍でここで輝きを放ってる。
あれから私も随分女遊びをしたのよ。でも、あなたのように想える人には終ぞ出会えなかった。
私の人生最大の幸福は、今もあの木造アパートの片隅にある。
窓の外に一台のワゴン車が停まった。
中から出て来たのはポロシャツを着た介護職員。
不機嫌な表情が雨に濡れた硝子越しでも分かる。
仕方ない。老人によくある徘徊を装う私が悪いの。
私の意識はまだ半分、この殺伐とした現実に生きている。
連れ戻されたら、薬を飲まされ、また一晩自室の寝台に括りつけられるのでしょう。
雨音が呼び起こした夢と現の間の混線。
記憶の湖の中に映るあなたの姿は、水輪で見えなくなる。窓硝子に映る私の顔は雨だれに押し流される。
そう、外は雨。
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