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大雨の日
バチバチと叩きつけるように響く暴力的な雨音。僕は布団にくるまりため息をついた。
(きっと今日も母さんの機嫌が悪い)
雨の日は異様に機嫌が悪い母。理由はわかっている。父さんが出て行った日が大雨だったからだ。雨音を聞くとあの日のことを思い出すのだろう。
「すまない、他に好きな女ができた。別れてくれ。慰謝料ならいくらでも払う」
夜中、たまたまトイレに起きた僕は父のそんな台詞を聞いてしまった。母が何と答えたのかは知らない。当時まだ小学一年生だった僕は恐ろしくなってそのまま部屋に戻って寝てしまったから。翌朝おねしょで濡れた布団をそっと洗濯機に入れ、おそるおそるリビングを覗くと母が呆けたようにソファに座っていた。なぜかそこから先の記憶はない。気付けば僕と母、二人の暮らしが始まっていた。それ以来雨の日、母は人が変わったようになる。何か少し気に入らないことがあろうものならすぐに手が飛んできた。でもそれはいい。我慢できるから。僕が嫌なのはその後だ。さんざん暴力を振るった後、母は豹変する。猫なで声で僕を抱きしめこう言う。
『ごめんなさい、あっくん。さぁ母さんのおっぱいを吸いなさい』
幼い頃はわけがわからなかった。でも年を経るにつれそれがひどくおかしいことだと気付く。でもこの儀式は変わらず続いていた。
(母さん、僕もう中学生だよ)
背だってとうに母を越えた。そんな息子の前で母は変わらず胸をはだける。そして……。
(思い出しちゃダメだ。眠ってしまおう)
覚醒に向かっていた意識を無理矢理押し込めぎゅっと目を瞑る。するといつしかうつらうつらと夢の世界へと誘われていった。
(ああ、いつもの夢だ)
深い深い海の底に落ちていく夢。僕は海面を見ながら後ろ向きに落ちていく。深く、深く。やがて背中に何かが触れた。海の底だ。僕は身をよじって海の底を見る。ざらざらとした黒い海の底。いや、違う。ようく見るとそれは黒く巨大な扉。ああ、きっとこれは……記憶の扉。
――開けちゃいけない。
どこか遠くからそんな声が聞こえる。そう、これは開けてはいけない扉。でもこの扉を開けない限り僕は自由になれない、それもわかってる。僕は勇気を出して扉に手をかけ……そこで目が覚めた。心臓が早鐘を打ち全身汗に塗れている。
「今日テストなのに」
不快な目覚めに思わず顔を歪めひとり呟く。外はまだ暗い。もう少し、もう少しだけ布団の中にいよう。ここにいれば安全だから。雨は嫌だ。雨は嫌だ。雨は……悪いものを連れて来る。
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