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トンネルを抜けると、窓の外が黒く染まっていた。ガタン、と一際大きい衝撃があって、思わず隣の席に置いていたカバンを押さえた。
「ここの席、いいですか」
そう声をかけられて、僕はそちらを向く。小学生か中学生くらいの背丈の男の子が立っていた。「どうぞ」と答えると、持っていた大きな荷物を引き寄せながら席に座った。
この列車はボックスシートになっていて、男の子と僕が向き合う形になる。ガタン、とまた大きな衝撃が来る。出発したのは二時間前くらいだ。ずっと乗り続けている。その間彼はどうしていたのだろうと思う。この列車は途中下車出来る駅はない。出発地から到着地まで直通の列車だ。
「お兄さんは、日本、に行ったことありますか?」
そう尋ねられて、「あるよ」と素直に答える。彼はリュックの先についている取っ手の部分を手でいじりながら続ける。
「僕、怖くて」
「怖い?」
「住んでいたところから離れるのが初めてだから」
離れる、引っ越しかなんかだろうか、と考える。ただ、まだ小さい彼一人で引っ越しなんてするんだろうか。
「何もかもが違う世界で、うまくやっていけるかな」
そう心配そうに呟いた。その不安げな表情を見て、何とか彼を元気付けたくなった。この列車の切符と一緒にしていた、大学の頃からのお守り代わりのそれを取りだし、彼に差し出す。
「これ、なんですか?」
渡したのは一枚の写真だった。彼は不思議そうにその写真を見る。
「これから行く人間界のーー日本の食べ物だよ」
たべもの、と彼は繰り返す。
「みそ汁っていうんだ」
「ミソ?」
「うん。すごく、美味しいんだよ」
「このミソシルが食べ物なんですね」
物珍しそうに写真を眺めている。
「人間界の食べ物ってね、魔界と違って本当に色々あるんだ。魔界の食べ物は大体黒かったり赤かったりだけど、色も香りも味も種類が豊富で楽しいんだよ」
「へぇ、ちょっと、楽しみになってきました」
「それならよかった。僕も本当に楽しみなんだ」
ガタン、と大きな衝撃があった後、真っ暗闇だった窓の外が柔らかい黒に変わる。ポツポツと白い灯りが見える。たぶんあれは家の灯りだろう。24時間営業のスーパーの看板が光っている。ガタンゴトン、と線路独特のリズムがある。
「ここが、日本?」
「うん、そうだよ」
彼は外を見つめる。窓の外はどんどん流れていく。ここから魔界から来た列車専用の駅に停まり、列車を降りたらヒトとして生きていくことになる。また魔界にも帰れるけれど、ひとまずはお別れだ。
「僕、これからここで暮らすんです」
「日本で?」
こくり、と彼は頷いた。
「これまではおじいちゃんおばあちゃんの家で暮らしてたんだけど、義務教育が終わったならこっちにきたらってお母さんに言われて。だからこれからはヒトとして生きていくって」
異界二世、という言葉を聞いたことがある。魔界に暮らしていたが仕事などの影響で人間界に住むことになった子どものことだ。その子どもは、ヒトとして人間界で過ごすか魔界で過ごすかを選択するという。たぶん彼は、魔界で生まれてその後親の転勤が決まったのだろう。
「何もかもが違う世界は怖いって思ってたけど、新しいことを知るきっかけでもあるんですね」
うん、と僕は頷く。
「お兄さんは、どうして日本に?」
「仕事だよ。しばらくはこっちで暮らすことになるから、すれ違うかもね」
「そっかぁ。僕、きっとお兄さんとすれ違ったら分かるよ」
「どうして?」
「お兄さんすごくカッコいいもん。ヴァンパイアさんってカッコいいけど、僕が今まで見たことあるヴァンパイアさんの中でもダントツ。お兄さんのこと忘れられないよ、たぶん」
ありがとう、と僕は軽く笑いながらお礼を言った。そんなに率直に褒められたことはなかった。なんだか、自分のことを話してみたくなった。彼がもっと、日本での生活を楽しみたいと思えるように。
「大学にいたとき、日本に留学して、感動したんだ」
「えっと、さっきのミソシルに?」
「うん。食べ物に感動して、どうにかまた日本に行けるように頑張ったら、行けることになった」
「じゃあすごく楽しみだ」
少年は自分のことのように笑う。僕はそれに頷いた。
「そう。たくさん食べてみたい。おいしいものも珍しいものも」
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