タイトル負け

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 タイトル負けとはタイトルに負けることである。まさに言葉の通りである。簡単に説明すると、タイトルがかっこいいのに、中身がかっこ良くないという具合だ。いや、タイトルに懲りすぎて内容が負けてしまったともいえる。内容が薄いのにタイトルだけうまくつけてしまった場合もあるだろう。  最近はやたら長いタイトルの作品がはびこっているが、中身をより一層引き立てる役割を果たしているともいえる。タイトルをつけるのが苦手な人間からするととてもうらやましい。もはやタイトルなど何でもいいのではないかと思いたくなる。しかし、「サンダースの魔法学入門」というタイトルの作品なのに、魔法が全く出てこない恋愛小説であったからには、タイトル負けと言わざるを得ないことになる。サンダースというキャラクターどころか固有名詞が全くが出てこない作品だったならば、完全にタイトルのサンダースは意味がないものになってしまうわけである。タイトル負けしてはいけないという決まりはないが、タイトル負けと戦わなくてはいけないときがきっとくるからだ。  とするならば、中身をタイトル以上に充実させれば解決するように思える。しかし、充実した内容でもタイトルとあまりにかけはなれている場合はやはりタイトル負けということになってしまうわけである。タイトル負けしないためには適切なタイトルをつける必要があるのだが、それが全く思いつかないのがタイトル負けというレッテルを貼られた者たちの末路なのである。タイトル負けではなく、タイトル苦手人間の方がしっくりくるが、それこそタイトル負けなのである。タイトル苦手人間というのは全く捻りもないわけで、タイトル負けと同じことだからだ。本来タイトルは作品が負けるためにあるわけじゃない。作品を引き立てるためにあるはずなのに、作品を負かせてしまう。それはタイトルの本意ではないはずだ。作品泣かせタイトルというわけである。もはやタイトルの一人勝ちか。どうにかしてタイトルに勝てる方法はないか。やはり内容がタイトルを負かすしかないのか。  もはや何が言いたいのか作者にもわからない。それがわかったらこんなものは書いていない。それこそ「タイトル負け」というタイトルをつけた時点で負けているのである。ということは中身が勝っているのか。そもそも勝ち負けなどあるのか。生まれたときから人生の勝ち負けが決まっているという都市伝説もあるが、本当なのか。勝ち負けなど元々どこにもないという者すらいる。一体何を信じればいいのか。  勝ちは勝ちで負けは負けだ。それ以外の意味なんてない。タイトルは負けてるのか勝っているのか。外側が着飾っているだけなのか。  ただ何も考えずに書いていたらこうなったといいわけしようにも、何も考えていない状態など果たして存在するのかという疑問が新たに生まれてしまう。寝ていても何かを考えているのが人間であるなら、人間でないことになってしまう。だからといって、人間以外の動物が何も考えていないというわけではないだろう。動物が考えていても人間には理解できないだけだ。チュンチュンという言葉が何を訴えているか、人間が正確に読み取ることはできない。いや、推量することはできるはずだ。しかし、それはただの想像でしかなく、動物が答えを教えてくれるわけじゃない。だから正解など誰にもわからない。世の中の問いに正解がないことの方が多いのも頷ける。誰に聞いても無駄だろう。自分で決めるしかないのだ。  タイトルだってそうだ。自分で決めるしかない。思いつかなくても適当につけるしかないのだ。「タイトルなし」というタイトルだって立派なタイトルだ。空白にすることはできない。ただタイトルを「空白」と書くしかない。しかし、それはもはやタイトルがないわけではなくなってしまう。もちろんただインターネット上で公開するだけならタイトルを空白にすることはできる。だが、小説投稿サイトなどに投稿する場合はタイトルが必須だ。タイトルをつけないとエラーになるからだ。エラーとは、コンピュータのシステムが勝手に間違っていると判断しているに過ぎない。人が決めているわけじゃない。でもそのプログラムを作ったのは人間だからやはり人が決めてることになるのか。プログラムを作った人が決めるのか、プログラムを作るように依頼した人が決めるのか。普通は後者だが、プログラムが決めているという側面もある。AIという人工知能が決めたものかもしれない。いや、そんな簡単なことを決めるAIなどいないだろう。やはりただタイトルを空白にすることはおかしいと判断した人間が取捨選択をしているに過ぎない。じゃあタイトルなしの作品を書きたい場合はどうするのか。「タイトルなし」というタイトルを付けるしか、結局のところないのではないか。どうして同じ結論を出すのにこんなに文字数を使う必要があったのか。一言で説明すればいいだろうに。私は一体何のためにこんなことをしているのだろう。きっとよほど暇なんだろう。誰が? 私がか?  タイトルは決めたくない。それは、タイトルがいつまでも決まらないからだ。タイトルなど無意味だ。タイトルのことばかり考えていて日が暮れる。だからつけないというのは正常な判断であるはずなのに、プログラムに否定される。人間が作ったものとするなら、他人に否定されているのと同じ事だ。要はさっさとタイトルを思いつけばいいのだ。でも思いつかない。それはもう仕方のないことだ。太陽が東から昇るのと同じくらい仕方のないことだ。西から昇るという歌もあった。時々どっちだったか混乱する。どちらにしろまた朝は来る。夜も来る。そして一日が終わる。  仕方がないので「タイトルなし」にしようと思い至るまでが無駄に時間がかかる。しかし、そこでもう一つの問題が立ちはだかる。「タイトルなし」というタイトルばかりの作品ができあがってしまうのだ。そしたら作品の区別がつかなくなる。どれもタイトルなしだったら、一体どれがどれなのか。やはりそのためにタイトルは必要なのか。必要ないと思って悪かった。しかし決められないのだから、酌量の余地があるように思う。もはや「タイトルなし1」と号数を振ればいいのだろうか。しかし、どれが「タイトルなし1」なのか、「タイトルなし2」なのかわからなくなるという弊害もある。それなら数字だけでいいのではないか。1は恋愛小説で、2は青春小説と覚えればいいのだ。しかし、それなら数字に意味などないのではないか。最初から「恋愛小説」というタイトルにすればいいのだ。「恋愛小説」が複数ある場合は「恋愛小説2」と番号を振ればいいし、それが一番簡単だ。どの恋愛小説が1なのか2なのかわからなくなる場合は、「マミとタクヤの恋愛小説」とすればいいのだ。マミとタクヤが誰かを忘れてしまうのなら、もうそれは誰にもどうにもできない。勝手にしろ。  だがしかし、ジャンルが一つに絞れない場合はどうするのだ。「青春恋愛小説」とすればいいのか。「ミステリー青春恋愛小説」と全部組み合わせればいいのか。「ミステリーも少し含んだ高校生の恋愛と友情の小説」と書けばもう話は特定される。だが、そんな長いタイトルをつけても説明くさいだけだ。だったら、「ミステリー風味甘酸っぱい恋と友情の物語」とした方がまだましだ。となるからには、普通のタイトルとほぼ変わらなくなってくる。もう少し捻ればよくあるタイトルがつけられるだろう。ならば結局タイトルを決めているのと同じ事で、もはやそれは「タイトルなし」ではないのだ。だから最初からタイトルをつけておけば良いことになる。それが思いつかないというのに。一体私にこれ以上どうしろというのか。  「タイトルが決まらない」という内容のエッセイを書くしかないということになるのかもしれない。物書きはなんでも文章にしようとする難儀な職業だ。お金をもらっていない者はただの趣味ともいうが。小説家の卵というべきか。卵はスクランブルエッグがうまいと言えばいいのか。混ぜることで味が出てくるとするならば、もうタイトルはなしでもありでもいいことになる。「タイトルありとなしで迷いました」としたらどうか。意味がわからない? 私ももはや意味がわからない。最初から意味などない。  要はタイトルが決まらない。だから、タイトル負けしている。タイトルにいつも負けているから決まらないという結論に達していいだろうか。いい加減タイトル決めろよ。じゃあ「あ」。  これならタイトルに負けないだろう。いや、中身が「い」だけの場合はどっちが勝つのか。早い方が勝ちか。遅い方が勝ちか。どちらも同等か。引き分けの場合どうしたらいいのか。  引き分けでしたので、タイトルも中身もどちらも負けていませんとなるのか。それとも、まさか、一言紹介文が勝つことになるのか。あらすじか。もはや、ペンネームか。長ければ勝つのか。全て「あ」の場合はどうなるのか。 「あ」作:あ  内容「あ」一言紹介文「あ」あらすじ「あ」  これの何が面白いのか。ただのギャグか。疲れているのか。社会人は皆疲れている。お前だけじゃない。  タイトルも作家名も一言紹介文もあらすじも内容も『あ』だったら、それはもう作品ではない。いや、それも1つの作品なのか。前衛的といえるか。ピカソか。  きっと、そんな作品を世に出したら批判されるだろう。だが、同じようにもてはやす人もいる。それが世界の面白いところだ。どこに芸術が潜んでいるかわからない。『あ』でも芸術になりえる。世の中は広い。  一体何のためにこんな長々と語っているのか、多分作者にもわかっていない。いや、一つだけ明確なことがある。ある日突然「タイトル負け」というタイトルを思いついてしまったがために、こんなことになっている。タイトルが先に決まってしまったから、「タイトル負け」という作品を書くしかなくなった。つまりその時点でタイトルに負けているのである。タイトルが内容を負かすために主張し出したのだ。それが俗に降ってくるというやつである。アイディアは突然降ってくる。「タイトル負け」というタイトルですら降ってくるのだから、もはや何でも降ってくるはずだ。「タイトルなし」でも降ってくるだろう。(仮)も捨てがたいが、たまにそのままタイトルにしてしまいがちだ。付け直すのが面倒だからだ。(仮)を取り忘れて最後まで書ききってしまう場合もある。書き終わった後に、さてタイトルはどうしようという話になる。結局またタイトルのことを考えているわけである。最初に(仮)で考えてつけたのにも関わらず、また考えているのだから始末に負えない。タイトルに負け続けていると言う他ない。じゃあタイトルに勝つことはできないのか。タイトルは常に勝つのか。タイトルのことを考えないわけにはいかないのだから、基本はタイトルが勝つのである。タイトルを考えない場合はもはや毎回「あ」とするしかない。もうどれがどれなのかわからないなどと言っている場合ではない。タイトルに勝つためにはそうするしかないのだ。文字数でどの作品か判断するしかないのだ。8000字の作品や、7980字の作品と、わざわざ覚えておかないといけないのである。それならタイトルが「8000字」でもいいことになってしまう。本末転倒だ。なら同じ文字数の場合はどうするのか。区別するために一字減らして「7999字」にするしかないのか。それこそタイトルに負けているのではないか。タイトルに合わせて文字数をわざわざ削ることになるのだ。それこそ本末転倒だ。だったら全ての作品はタイトル負けになってしまう。この話のように「タイトル負け」というタイトルを付けるしかなくなる。  いや、そこで思い切って「内容勝ち」というタイトルにすればいいのだろうか。だがしかし、「内容勝ち」というタイトルなのに内容が負けてしまったらどうするのか。それこそタイトル負けではないか。結局タイトルの一人勝ちでしかない。タイトルがどうしても負けてくれない。負けてくれよ。むしろくれ。つまり、値下げを期待しているわけである。そしたらタイトルを決めなくても最初からついているかもしれないからだ。タイトルについて考える時間を大幅に減らすことができる。そしたら作者の勝ちだ。だが、タイトルが気に入らなかったら、もはや自分で考えるしかない。結局考えることから逃れられない。タイトルに勝つ方法はない。  「タイトル負け」について語っているのだから、結論はタイトルが勝つしかないわけである。タイトルよ、勝つのだ。私のために。いや、負けてくれ。どっちだということになる。  タイトル負けしない作品をなんとか世に出すしかない。その者こそが人生の勝者になるのだ。がんばれ。全てのタイトルに負ける者どもへ。
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