3人が本棚に入れています
本棚に追加
ラボの周りは、自然豊かな地方都市だった。
私たちが寝泊まりしている家とラボは丘の上にあり、私の徒歩で百秒ほどの距離を隔てて建てられていた。丘の周辺には、ほかに家はない。
家事は兄さんと分担し、中でも時間がかかりそうな作業は私が担当して、兄さんには極力研究に集中してもらった。
井戸からの水くみ、鶏の世話、魚の燻製づくりなどであっという間に一日が過ぎていく。
村への買い出しは兄さんの担当だったが、貨幣の使い方などを覚えたらいずれ私に任せると言ってくれた。
ある日、フエタチーズをたっぷり載せた黒パンをほおばりながら――私は高性能なので、人間である兄さんと同じものを食べ、飲むことができるのは、調理手間が増えなくてありがたかった――私は兄さんに尋ねた。
「毎日、家事をしているだけで時間が相当取られますね。兄さんが私を造って負担を軽減しようとしたのもうなずけます」
「いや、そんなつもりじゃないけどな。単純に、その、なんだ」
「ぼっちが寂しかったのですか」
「お前、ぼっちひそかに気に入ってるだろ。まあ当たらずとも遠からずとしておこう」
「当たったのですね」
「お前ほんと堂々と遠慮しないね!? あ、あとお前、冬場は金属に触るときは遮電布の手袋つけろよ。静電気くらいはどうってことないけど、万が一ってことがあるからな。遮電布は地下にいっぱいあるから」
その指令はインプットされていなかったので、脳内のメモリーに新規に追加しておく。
私のデフォルトデータはかなり多岐に渡った事柄があらかじめ入力されていたが、人間と一緒に送る生活というのは、新しいインプットの嵐だった。
ある日、私が家に帰ってくると、兄さんが私を出迎えるなり血相を変えた。
「ベーター、お前どこに行っていたんだ。それにその格好はどうした!?」
私の体は、いくつもの石つぶてや生卵をぶつけられて、ひどい状態だった。
「薪を取りに林へ行ったところ、村の住人と思しき一段と邂逅しました。どのように彼らと接すればいいのか、適当なデータがなかったので特に対応せずにいたら、このように」
――なんだお前、むっつりしやがって。さてはあの家の住人か。気味の悪い野郎だ、あっちへ行け――
「……すまなかった。僕の手落ちだ。最低限のコミュニケーションの仕方くらいは教えておくべきだった」
「彼らとの邂逅はイレギュラーだったので、そのようには思っていません。ただ、なんというのか、思ったよりもひどいものですね。兄さんの言っていた、そう、差別が」
「……そうだな。あまり覚えてほしい言葉ではなかったが」
「私の駆動音を聞かれた様子はありませんでしたから、アンドロイドとは思われなかったはずですが、彼らは私を迫害してきました。この家に住んでいるというだけでこの仕打ちとは。よく兄さんは耐えられていますね」
「なに、僕が中央でのし上がればまたあいつらの見方も変わるさ」
兄さんは私の体の汚れを落とすと、タラとイワシの野菜詰めを作ってくれた。私はミルクを多めにしたフロスウィ・コーヒーを入れる。
二人でテーブルにつきながら、私の味覚を高性能に作ってくれたことを、改めて兄さんに感謝した。
その夜は、しかし、なかなか寝つけなかった。
昼間に、村の人々に向けられた険しい表情とスラングの罵声が、いつまでも私の回路を行きつ戻りつし、人工神経がとげとげしい熱を持っていた。
私はまるで人間のように、キッチンへ行ってグラス一杯の水を飲んだ。
窓の外には、ラボが見える。
私は普段あまり足を踏み入れないラボへ、この夜は足を向けてみた。
ドアの鍵を開け、中に入ると、以前と同じ機械の群が所狭しと並んでいた。
人間が故郷を訪れたら感じるのであろう落ち着きを、私の場合はここに来ると感じることができるようで、回路は次第に落ち着いていった。
テーブルの上に、古びたテープレコーダーがあった。
スイッチを入れると、知らない人間の声が響いてきた。
何度も繰り返し再生られたせいか、古ぼけ、ひび割れ、不明瞭な音声だったが。
<……君に去られるのは耐えられない。それなら僕がいなくなろう……>
聞き取れたのはその程度だった。
その意味を兄さんに聞いてみる気には、夜が明けてみても、なぜかなれなかった。
■
最初のコメントを投稿しよう!