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1 うさぎと花と、虎 ①
「うさぎいい加減浮上しろよ」
憐れむような呆れるような溜め息を吐きながらそう言ったのは、俺宇崎 花虎が毎日のように通う喫茶店のマスターをしている小野田 由利という男で、実は幼馴染みでもある。
俺たちは性格が真逆で、家が近所じゃなかったら顔見知りにはなれても友人にはなれなかったと思うし、たとえ友人になれたとしても学生でなくなれば疎遠になってもおかしくはないのに三十二歳になった今も変わらずつるんでいる。
本当は内向的で我儘なくせに外面だけはいい俺と、人一倍気ぃ遣いのくせに見た目や雰囲気からチャラい印象を持たれがちな小野田と、俺たちの関係はひとえに小野田が俺の事をよく分かってくれていて、気を遣ってくれるから成り立っていると言っても過言ではない。
「もっと優しくしろよー。兎は寂しいと死んじゃうんだぞぉ……」
だからつい甘えてしまうんだ。軟体動物みたいにカウンターにぐてりと上半身を投げ出し睨んでやれば、小野田はケタケタと笑い声をあげる。
「そんなのは嘘っぱちだって。寂しいくらいで死んじゃわねーよ。――てか、アレからもう一年は経つんだからさぁ……そろそろ新しいのいっとけー? なぁ? 花ちゃん」
そんな軽いのりで言われるが、本当は俺を心配した軽くはない言葉だと分かっている。
分かっているし俺自身そうできたらいいと思うけど、できないんだからしょうがないじゃないかと唇を尖らせた。
「――花ちゃん? うさぎさんの事ですか?」
と、小野田の背後からひょいと顔を出したのはバイトの呉 君。何でも大学生になってバイトデビューしたんだとか、今時大学生になるまでバイトのひとつもした事がないって良家のお坊ちゃまかよと心の中で悪態を吐く。
生涯バイトをしない人だっているし、大学生になってからが初のバイトだっていうのもおかしな話ではない。ただ呉君がそうだというのが少しだけ癪に障るというだけの話だ。
呉君はバイトを始めた最初の頃は慣れずに色々とやらかしていたけど、すぐに慣れて今ではもう何年も勤め上げた玄人みたいな雰囲気を醸し出している。雰囲気だけじゃなくて実力も伴うのだから若いっていいなと思う。順応性の高さよ。もしも俺が呉君みたいだったら過去は過去として新しい恋に生きれたのかな。
呉君は出来る男な上に見た目も整っていて、色素薄目の茶髪に大きな瞳がきらっきらしてて王子さまみたいで、なにひとつ辛い事なんて経験した事ないんだろうし恋だってうまくいきまくりに決まってる、と八つ当たりにも似た気持ちになってぷいっとそっぽを向いた。
「あー俺こいつの事うさぎうさぎって呼んでっけど、本名は宇崎 花虎って言って、『宇崎』で『うさぎ』、『花虎』で『花』ってわけ」
そう答えた小野田は俺の態度に苦笑しているけど、別に俺に訊いたわけじゃないしお前が答えたんだからいいだろ。ふん。
まぁ普段の俺なら外面だけはいいからどんな事言われたって笑顔で対応するところだけど、呉君には最近ではもうそんなよそ行きな態度はとっていない。
別にこれといった理由はないけど、変に無理して取り繕う必要もないって思えるからだ。
「――へぇ。兎に花、虎では呼ばれないんですか?」
「――あー……えっとそれは……」
小野田は言葉を濁した。キョトンとした顔をする呉君に、今日は虫の居所も悪かったのも手伝って更に俺らしくない態度をとってしまう。
「ハッ! こんないい歳したおっさんに『花ちゃん』だなんてどうかしてる。『兎』の方が何倍もマシだ。これからも俺を呼ぶ時は『うさぎ』だから。それ以外受け付けないから」
と少しだけ乱暴に小野田に花ちゃんと呼ばれた事を強調し、呉君の疑問に答える事なく誤魔化した。呉君は「了解です」とだけ言ってそれ以上突っ込んで訊いたりせず、仕事に戻っていった。
その後ろ姿をじっと見ていると、小野田はうーんと唸って、「他に目がいくのはいいけど……あの子は駄目だぞ」と小さくダメ出しをしてきた。
「ばっ! べ、別に――っ!」
俺の叫び声に呉君が一瞬だけ振り向いたが、すぐに別の客の方へ行ってしまった。
それが少しだけ寂しいと思うのはきっと気のせいなんだと思う。
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