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 母の仕事の都合で東京に引っ越すことになったとき、俺は反対しなかった。母がもともと仕事好きで、本当はバリバリ働きたいのに、俺のためにセーブしているのを知っていたからだ。  友達と離れることも、叔父さんと会えなくなるのも寂しかったが、母にもやりたいことをやってほしいと思った。そう伝えたら母は号泣して俺を抱きしめたのだった。涙もろい人だった。  だが――もし俺があのとき、引っ越したくない、東京になんか行きたくないと駄々をこねていたら。  母が通勤電車の事故で死ぬことはなかったのだろうか。  ずっと考えているが、答えは出ない。やり場のない悲しさと悔しさばかりが、あの日から胸を占拠し続けている。  夕方近くなってから、叔父さんの車で再び出掛けた。  ドラッグストアとスーパー、生活雑貨の量販店。取り急ぎ、今日からの生活に必要そうなものをそろえる。  食材の買い出しをしていたから、てっきり夕飯は家でとるのかと思っていたら、回転寿司店に連れていかれた。叔父さんは「チェーン店で悪いな」と笑った。  帰宅するとすぐ、叔父さんが風呂を沸かしてくれた。古い家だが風呂場は数年前にリフォームしたそうで、足を伸ばせる広々とした湯船に、追い炊き機能もしっかりついている。  熱めのお湯に体を沈めると、自然と腹の底から「はあー……」と長い息が漏れた。  硬くなっていた全身の筋肉がほぐれていく。緊張や気詰まりはないのだが、もろもろの準備や東京からの移動により、疲れはしっかりと溜まっていた。
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