8人が本棚に入れています
本棚に追加
もう一度選ぶということ
少ししてから、その音は土岐さんが姫川さんのほほをぶった音だと理解する。
本当に土岐さんが姫川さんをぶったのだろうか。
普段の姿からは想像もつかない行動に戸惑う。
土岐さんの方をちらりと見た後に、ぶたれた姫川さんの方を見る。
姫川さんの目が普段よりも少し大きく見開かれているような気がする。
驚いているのは姫川さんも同じらしかった。
土岐さんは静かに、でも、激しい感情を内に秘めた声で語り始める。
「なんで七草君のこと、悪く言うの?私、七草君の彼女だから、七草君のことを悪く言う人のこと、許さない」
パンッ。
もう一度、乾いた音が辺りに響く。
その音は姫川さんが土岐さんをぶった音だった。
「友達の彼氏を取っておいて、よくそんなこと平気で言えるよね。奏ちゃん、ほんとは性格悪いよね」
「そうだよ。私、ほんとは性格悪いの。知らなかったの?」
そう言って土岐さんは微かに笑った。
その笑顔に腹を立てたのか、姫川さんが土岐さんを鋭くにらみつける。
にらみつけられているにも関わらず、土岐さんに動揺する様子はうかがえない。
土岐さんは静かに口を開く。
「七草君が私たちの関係を壊したって言うけど、壊したのは姫川さんも同じでしょ」
「私、壊してなんかない。全部、七草君が壊したの。だから、七草君のせい」
「違う」
土岐さんは短くそう言い切った。
「七草君から姫川さんのこと聞いたの。私のためとか言って、七草君を私から遠ざけたんでしょ。私たちが今の関係になったのって、そもそもそれが原因だと思う」
「うるさい!好きな人を自分のものにしようとして、何が悪いの?そんなのあたり前のことでしょ!」
姫川さんは強くそう、言い切る。
でも、土岐さんはその言葉にピクリとも動じない。
「そうだよね。好きな人のこと、独り占めしたいよね。その結果、友達がどうなるかも気にしないで。いや、気にはしてたけど、見てみないふりしたのかもね」
静かにそう言い放つ土岐さんは至って冷静なようだった。
姫川さんは土岐さんの言葉に、感情をこめて言い返す。
「見てみないふりなんかしてない。私だって辛かった。そんなの知らないでしょ!」
「うん、知らない」
土岐さんは端的にそう答えた。
「なにそれ。ウケるんですけど」
そう言って、姫川さんは笑い始める。
「好きな人のこと手に入れようとして、何が悪いわけ?結局、奏ちゃんは七草君のこと手に入れようとしなかったわけでしょ。そんなのただの負け惜しみじゃん」
「負け惜しみしてるのは姫川さんでしょ」
「は?」
土岐さんの静かに煽る言葉に、姫川さんは反応した。
土岐さんの口元に微かな笑みがこぼれる。
「だって、最後に負けたのは姫川さんでしょ。負け惜しみしてるのは姫川さんの方だよ」
「うるさい!」
そう言いながら姫川さんは土岐さんをぶとうとする。
土岐さんはその手を軽々と払いのけた。
「負けたのは私じゃなくて、姫川さんでしょ」
「いや、私が、私が勝ってた!」
「でも、負けたんでしょ」
淡々とした土岐さんの言葉に姫川さんが口をつぐむ。
そして、土岐さんの方を真っすぐに見ながら話し始める。
「私が……私が先だった!七草君のことを好きになったのも、七草君を手に入れたのも私が先だった!なのに……なのに……全部、全部、奏ちゃんが奪ってった!絶対に……絶対に許さない」
鬼気迫る様子でそう言い放つ姫川さんの目に狂気じみたものを感じる。
それでも、土岐さんに動じる様子はない。
「言いたいことはそれだけ?姫川さん。負け惜しみはもう、終わった?」
うっすらとした笑みを浮かべる土岐さんに、姫川さんの怒りは高まっているみたいだ。
これじゃいけないと思って、二人の間に口を挟む。
「土岐さん、今日はもう、これぐらいにしよう」
「七草君は黙ってて」
土岐さんにそう言われて、何も言い返すことができない。
土岐さんの眼差しはそれほどまでに冷たかった。
「私から何もかも奪っていったとか、姫川さん言ってるけど、逆だよね。何もかも奪っていったのは姫川さんの方でしょ。なのに、今さら被害者面しないでもらえる?」
「でも、最後に持って行ったのは奏ちゃんの方でしょ!だから、奏ちゃんが悪いに決まってる!」
「最後に持って行った人が悪い?意味不明なんだけど」
土岐さんはそう言ってため息をついた。
土岐さんにこんな一面があるなんて知らなかった。
これがきっと土岐さんの持つ裏の一面なんだと思う。
綺麗な紫陽花の葉には毒があるように、土岐さんにも毒がある。
そのことを思い知らされる。
それを知ってもなお、僕は土岐さんのことを信じられるのか。
いや、信じるしかないんだ。
だって、僕は土岐さんを選んだんだから。
「言いたいことはそれだけ?何もないなら、私たち、帰るね。行こう、七草君」
そう言って土岐さんは駅の方向を向いて歩き出す。
このままで終わりなんだろうか。
そう思いながら、僕も土岐さんについていこうとする。
そのとき、背中を向けた僕たちに向かって、姫川さんが弱い声で話し始めた。
「奏ちゃんに……奏ちゃんに私の何がわかるの……。友達の数は多いけれども、ほんとの友達なんか一人もいなくて、ずっと一人で寂しかった私にとって七草君は大事な存在だった。恋人同士になれば、七草君を自分のそばに置いておく口実ができると思ったから、七草君と付き合ったの。それの何がいけないの……」
姫川さんの声を聞いて、土岐さんと僕は立ち止って振り向いた。
土岐さんはさっきの冷たい様子からうって変わって、優しい声で話しかける。
「姫川さんも私と同じだったんだね」
「え」
姫川さんは土岐さんが何を言っているのか理解できないといった様子だ。
土岐さんは穏やかに言葉を重ねる。
「私、昔から裏でずっと陰口を叩かれてた。土岐さんは冷淡だって。ずっと一人で寂しかった。そんなとき、七草君と出会った。七草君は周りの意見に流されないで、自分なりに私のことを理解してくれた。だから、私にとって七草君は大事な存在なの。だから、ほんとはね、姫川さんと私って似ていると思う」
姫川さんはその言葉に何も言い返さない。
その様子を見て、土岐さんはさらに言葉を重ねていく。
「確かに、七草君は二者択一の状況で片方を選んだ。そして、その選択のせいで誰一人幸せな気持ちだけではいられなくなった。だからね、私から提案があるの」
そこまで言って土岐さんは小さく息を吸って吐いた。
そして、少し間を開けてから話し始める。
「もう一度、七草君に選んでもらうの。やり直すの、選択を」
そう言って、土岐さんは僕の方を向いて傘を持っていない方の手を差し出す。
「七草君。姫川さんと私、どっちを選びますか?」
こんな話、打ち合わせの段階で聞いていなかった。
多分これは、土岐さんの予定の中に組み込まれていたことなんだと思う。
そう思えるほどに土岐さんは落ち着いている。
土岐さんのそんな様子を見て、姫川さんも無言で僕に手を差し出す。
この伸ばされた二人の手の内、片方を僕は選ばなくちゃいけない。
唐突な展開に頭が追い付かないながらも、それだけは、はっきりと分かった。
降りしきる雨の中、手を差し出す二人の女子と、立ち尽くす一人の男子がそこにいた。
僕は差し出された二本の腕を交互に見る。
土岐さんも、姫川さんも、僕にとって大事な人であることに変わりはない。
最初は姫川さんとしか友達ではなかったけれども、時間をかけて土岐さんとも友達になった。
そして、ある日、姫川さんに恋人になって欲しいと迫られる。
特に強い自分の意思も無かった僕は流されるようにその申し出を受け入れた。
正直、姫川さんの束縛がめんどくさくも感じたこともあったけれど、それでも、姫川さんと過ごす日々は手放し難く感じていた。
そんなとき、土岐さんの抱える秘密を知ったんだ。
その後、姫川さんが抱える秘密も知って、僕はどちらか一方を選ばなくちゃいけなくなった。
そして、僕は土岐さんを選んだ。
でも、その選択で誰も幸せにならなかった。
そして今、二本の腕が差し出されている。
その二本の腕のうち、片方を選ばなくちゃいけない。
僕はどちらを選びたいのか。
「だから、答えを出せ、少年。君が見つけた答えなら、君が選んだ道なら、それが君の正解だ」
川井先生の言葉が脳裏をよぎる。
僕が見つけた答えなら、それは自分なりに正しい。
けれど、それが自分を含めた周りを幸せにするかはわからない。
土岐さんを選んでも、姫川さんを選んでも、誰かは不幸になるんだと思う。
だとしたら、僕がすべきなのは後悔がない選択だ。
僕は自分の胸に手を当てて、目を閉じる。
僕が選びたいのは……。
答えを見つけた僕は胸に手を当てたまま目を開く。
そして、胸から手を離して一人の手首を握る。
「これが、僕の答えだよ。土岐さん、姫川さん」
手首を握られた土岐さんは優しく僕に語りかける。
「そっか。これが七草君の選択なんだね。ありがとう。私、この選択を無駄にしないから」
そう言って土岐さんは優しく微笑んだ。
姫川さんの方を見ると、姫川さんのほほに光るものが伝っていた。
「そっか、私じゃ、駄目なんだね……」
僕は姫川さんに向けて穏やかに言葉を重ねる。
「ごめん、姫川さん。僕は姫川さんを選べない。でも、これだけは約束する。僕は姫川さんの本当の友達になるよ。一人で辛いときはどうか、僕を頼って欲しい。もう、姫川さんを一人にはしないから」
僕の言葉を聞いて、土岐さんも姫川さんに向けて語りかける。
「私も姫川さんに約束する。この選択を無駄にしないって。最初は確かに七草君が私のそばにいてくれれば、それで良かった。でも、今は七草君のそばに私がいてあげたいの。七草君が私のことを嫌いになるまで、私、七草君のそばに居続ける。そして、姫川さんのそばにもいるよ。私も七草君と一緒に姫川さんの本当の友達になる」
「奏ちゃん……」
姫川さんはあふれ出る涙を、傘を持っていない方の手でぬぐう。
そして、大きく息を吸って吐いてから、話し始める。
「多分、すぐには奏ちゃんと七草君のこと、認められないと思う……。でも……善処する……。ほんとの友達になってくれて……ありがと……奏ちゃん…………ななちゃん」
姫川さんはそう言って、目尻に着いた涙をぬぐった。
「一緒に帰ろうよ。七草君、姫川さん」
土岐さんが穏やかな声でそう言った。
「うん、そうだね。帰ろう」
僕がそう返すと、姫川さんは頷いた。
そして、三人で歩幅を合わせるようにして歩き始める。
後悔のない選択が描く明日に向かって。
最初のコメントを投稿しよう!