美味しいお酒はあなたとともに

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 金曜日の夜、残業続きの一週間もやっと終わろうとしている。加納優恵は、仕事帰りに閉店前のスーパーに駆け込み、いくつか食材を買ったところだった。今夜はとっておきのお酒を出す予定だった。それに合わせる肴も予め考えている。優恵は家に着くのが楽しみだった。  家までは15分ほど歩かなければならない。優恵は暗い住宅地の隙間の舗装路を足早に急いだ。  街灯があっても間隔が広く、光が届かない場所もある道である。優恵は、最近誰かに見られているような気配を感じるので正直通りたくない道だった。しかしスーパーに寄れば通らざるを得ない道であり、今日は競歩選手のように急ぎ足で帰っていた。  住んでいるアパートが近づくにつれ、背後にかすかな音がする気がしていた。優恵は、自分の靴音が反響しているだけと自分に言い聞かせながら急いでいたが、いよいよ、明らかに足音らしき音が背後に聞こえた。  優恵の心臓がきゅっと締まるような気がした。 (怖い) と思った瞬間、さぁーと細かい雨が降ってきた。優恵は反射的に走りだした。雨は勢いを増して優恵の頬を打ったが、冷たくないので不思議と嫌ではなかった。優恵は一気に走り切って自宅のドアに駆け込んだ。  ドアに入ると、優恵は安堵のあまり肩で大きく息をついた。数回呼吸した後、今日の夕食のことを思い出して元気を振り絞った。  そうやって、なんとか着替えて夕食の支度を済ませたのに、優恵はまたしても恐怖の渦中にいた。 「あなたは誰なの…?」  優恵は、目の前で起こった事に慌てふためき、ソファによじ登りその隅で固まりつつ、かろうじてその一言を搾り出した。  優恵がお気に入りの吹きガラスの小さなグラスに、楽しみにとって置いた故郷のお酒を注いだ瞬間、眼前に知らない男性が現れたのだ。  男はジィッと優恵を見つめている。3回ほど深呼吸すると優恵の目の焦点が合ってきた。 ふと目の前の男性の肩を透かして、壁に掛けてあるカレンダーが目に入った。 「え?…すけて…る?」 彼の腰あたりには壁に寄せて置いてあるチェストも見えている。 「幽霊…!」 かすれる声で呟いてから、優恵は体全体を緊張させて縮こまっていた。  眼前の男は、腕を曲げて交互に眺めてから、少し残念そうに優恵を見た。そしてゆっくりと膝を折って正座でその場に座ると、 「お前がそう思うならそれでも良い。今の私にはさほど力もないしな」 と言って、再び優恵を見つめた。 (喋った…)  優恵は驚きを持って、男を見つめた。  幽霊らしき男は、静かに座っている。まるで優恵の緊張が解けるのを待っているようだった。  どうやら今たちまち危害が加えられないと分かると、優恵はやっと 「あなたは、誰なの?」 と聞くことができた。 「私か?私のことは夢で伝えていたであろう。それよりもこの酒を頂いてもよいか?」  男はテーブルの上のグラスを指差した。  優恵は、こくこくと頭を上下に揺らした。自分が楽しみに注いだ酒だが、得体の知れない幽霊の機嫌を損ねるわけにはいかない。  幽霊の男は、グラスに覆い被さると鼻をグラスに近づけて香りをかいでいるようだった。  男がグラスに気を取られている間、優恵は彼を観察する余裕ができた。 彼の長い髪は後ろで束ねられているが、ほつれた前髪が幾筋かはらりと広い額にかかっている。背筋がぴんと伸びた姿やたおやかに顔を傾ける仕草が、優恵は美しいと見とれてしまった。そして身に付けている衣服は、洋服ではなくきれいな光沢を持った着物だった。 男が顔を上げた。切れ長の目が綺麗な弧を描く。満足そうな顔だった。 「これはお前の里の酒だろう」 「は、はいっ」  唐突に男に話かけられ、優恵の声はひっくり返った。 「いつ味わっても香しい」  男の声は落ち着いていたが心から嬉しそうな表情をしていた。そして、 「さあ、お前の番だ。この酒と料理を口にして味わえ」 と言った。 「わ、私ですか?」 「そうだ。お前の舌と喉を通じて私も実際にこれらを味わうことができる」  男はそうすることが当たり前のように言うと、優恵を見ながら手招きをした。  優恵がためらっていると、次の瞬間、優恵の目の前10センチぐらいのところに彼の美しい顔があった。 「怖がらずともよい。お前の嫌がることはしない。ただ、ともに故郷の酒を味わいたいのだ」  幽霊の男は少し離れて、 「そう怖がるな。私は、お前には何もしない。そう恐れられると寂しいではないか」 と言って、本当に辛そうな顔をしている。男は、すぐに元の場所で座り直し、 「私は、こうやってお前と見えることができて嬉しいのだ。夢では幾度もあっているがな。さあ、ここに来てくれないか」 と言って、優恵を見つめた。 (夢?夢って言った?) 優恵の心の中は疑問符だらけであったが、あまりに幽霊が誘うのゆっくりとテーブルについた。実は優恵の空腹は極限に達していた。   男は期待を込めた目で優恵を見つめている。 「さあ、いただこう。まずは酒からだ」 男は、優恵に酒を促した。 優恵は恐る恐るグラスに手を取ると、その液体をそっと口に含んだ。その瞬間、まろやかで優しい甘みが口いっぱいに広がり芳醇な香りが鼻に抜けた。 優恵は幽霊の存在を一瞬忘れて、酒を味わった。ずっと楽しみにしていた酒だった。 (そうそう、コレよ。この味だわ。ああ、懐かしい・・・)  先月、久ぶりに故郷へ帰り先祖の墓参りを済ませたが、あわせて念願の地元の酒をお土産に買って帰ったところだった。  優恵は顔が緩んだとき、幽霊と目が合った。幽霊は満足そうに微笑んでいるようだ。 (変な幽霊ね・・・)  優恵は少しずつ恐怖心が薄れていくのが分かった。最初は透けて見えるということで幽霊と思い、それだけで恐ろしかったが、危害を加えないと分かってからは、むしろ興味がわいてきた。  幽霊は、料理の皿を指さして、それも食べてみろと優恵に促してくる。 今日の酒の肴は3品。小鯵のから揚げ、トマトと玉ねぎスライスのポン酢和え、そして鶏肝の味噌漬けだった。 とっておきのお酒を飲むために丁寧に準備した。新玉ねぎは歯ごたえを残すように少し厚めに切って、しっかり水で晒している。小鯵は腹の中をよく洗ってから水気を拭き、アンデス産の岩塩で味付けている。鶏肝の味噌漬けは昨日の夜に仕込んでおいた。味噌だれには、今飲んでいる酒を造っている地元の酒蔵で売っている味醂を使った。味噌は地元のメーカーのものだ。大好きだった祖母のレシピである。優恵は、この鶏肝の味噌漬けが大好物である。日本酒にも合うが、白米にも相性がよくご飯が進んで困るくらいだ。  優恵は、遠慮なく(自分で作ったものであるし)、鶏の味噌漬けを口に頬張った。 (ああ、美味しい…、でも食べごろは明後日かなぁ)  大きな欠片を頬張って、うっとりとしていると、ふわりと幽霊の手が優恵の顔に伸びてきた。 「う!」  優恵はびっくりして、喉を詰まらせそうになった。 「あ、すまんすまん。お前の口の端に味噌が付いているので気になってな。しかし、私では取ってやれんな」  そういって男は手をひっこめた。  優恵は、言われて自分の指で口の端をぬぐった。指に付いた味噌をそのまま口で舐め取った。  男と目が合って、どちらともなくふっと笑った。  優恵は、くいっとグラスの酒を飲むと、こうやって幽霊を差し向かいで酒を飲むのもなかなか良いかもしれないと思った。一人であっても美味しいものを食べられれば満足であったが、その感想を共有できる相手がいるというのは心の違う部分が満たされるような気がした。 「その味噌たれは良い味だな。懐かしい風味がする」  と幽霊が言うので、 「ふふふ、お祖母ちゃんの特別レシピなの」 と、優恵は自慢げに言った。幽霊は、優しい目で「そうか」と頷いた。  その後も、幽霊の男は優恵にあれこれ食べたり飲んだりすることを指示するので、優恵のいつもよりも早いペースで酒が進み、優恵はいつになく酔っぱらってしまった。 「ねぇ、どうしてそんなにお酒と食べ物を勧めるのよー」  少し呂律の回らなくなった優恵は、疑問を彼にぶつけてみると 「お前が味わったものが私に伝わってくるんだよ」 と優しく言った。そして、 「お前には感謝している。こんなに旨い酒は久方ぶりだよ」 としみじみと付け加えた。 「ふーん」  優恵は、その言葉の重みを知ることもなく、くにゃりとテーブルに突っ伏した。体がフワフワしていた。眠りそう、と自分で思ったときにはすでに夢の中だった。 優恵は、頭を撫でられる感覚で目を覚ました。  顔を上げると、そばに幽霊の男が座っていた。優恵が頭を上げても、彼女の頭を撫でるのを止めなかった。 「ちょ、ちょ、ちょっと。すみません」  優恵は男の手を押し返した。その瞬間、あれっと思った。 (私、この人の腕、触れている)  びっくりした私の顔を見て、男は、ははっと笑った。 「驚いたか」  優恵は、頷いた。 「お前が眠っているときはこうやって触れることができるんだがな」  男は残念そうに笑った。 「お前とは夢でこうやって逢っているが、またもや忘れてしまったか」  優恵は、忘れていることを指摘されて申し訳なくなってしまった。 「いつからですか。いつから夢で逢っているんですか?」 「ダムの見える場所で逢ってからだよ」  男は透明感のある瞳で優恵を見た。それはすべての感情を含みすべての感情をかき消すような深い透明だった。 「ダム・・・」  優恵は呟いて、思い当たった。先月、墓参りに行った墓所はダムの見える高台だった。 (そっか、そこから憑いてきちゃったか)  優恵はすんなり納得してしまった。  男は、ポツリと言った。 「どうしても感謝を伝えたかった。私に酒を供えてくれて、肴を味わう喜びを再び得ることができた。私があの酒を懇願したのを、よく覚えてくれていたね」  男の告白に、優恵はハッとした。 (そうよ、そうだった。どうしても地元のお酒を飲まなければいけない気分だったし、生半可な肴にしてはいけないような気がしていた)  優恵は自分の行動に合点がいった。そこを糸口に、夢で男が酒を供えてくれないかと言っていたことを思い出し、さらには夢で何度も逢っては、故郷の話をしたことを思い出した。  優恵の表情を見て男は、 「ああ、思い出してくれたかい。さ、こんなところで寝ていると風邪をひいてしまうよ。布団に行くんだ」 と優恵の背中を押した。  次の瞬間、優恵は突っ伏したテーブルから顔を上げて周りを見た。部屋には誰もいない。時計の秒針の音がやけに大きく聞こえた。 「そうだ、ベットにいかなきゃ」  優恵はゆっくりと体を起こし、ベットに向かった。向かいながら、 (そっか、墓参りからか憑いてたんだ…。そういえば最近ずっと帰り路に変な気配がしていたよね…今日の足音もあの人のせいか…) と眠たい頭で考えていた。  翌朝、目覚めると彼がいた。足を崩して床に座っていた。足の甲から床のラグの模様が見えている。優恵が目覚めている時は透けているのだ。  優恵から見て、彼はとてもリラックスしているように見えた。  彼は起き上がった優恵を見て 「おはよう」と微笑みかけてきた。 「おはようございます」  優恵はつられて挨拶をした。すぐに、ボサボサの頭や寝ぼけた顔を見られたことに恥ずかしさを感じたが、これまでも側に憑いていたなら今更取り繕う必要も無いと、開き直った。 「何を食うのか?」  幽霊の男は期待に満ちた目でこちらを見ている。 (意外と食い意地が張っているのかしら…?)  優恵は美形の幽霊をしみじみ見ながら、 「朝はテキトーなんだけど、とっておきのパンがあるの」 と言って冷蔵庫の奥からジップロックの袋を取り出した。中からラップできっちりと巻かれたロールパンが出てきた。冷凍していたものを一晩かけて自然解凍したのだ。 「私、週に一回パンを焼くの。大抵、バターロールなんだけどとっても香りが良いの」  優恵は幽霊の鼻先にパンを持っていくと、彼は頭を傾けてパンの香りを嗅いだ。 「よく分からんな」 「まだ冷たいからね。これをオーブンで温めます」  優恵は手慣れた手つきでパンを温めたオーブンの庫内に入れるとバタンと閉めた。 「さて、待っている間にコーヒーを淹れましょう」  優恵のすることを男は面白そうに眺めている。オーブンはすぐ音を立てた。 優恵はパンにバターとイチゴチャムを添えて、コーヒーはカフェオレに仕立ててトレーに置いた。 「これは驚いた」  優恵の肩越しに覗いた幽霊は心から感心したようだった。 「なんて心地よい香りなんだ」 「気に入った?」 「ああ。すごく良い」  幽霊はコーヒーとバターの香りがお気に召したようだった。  優恵が食べた後も、「美味かった」と満足そうだったが直ぐに「次は何を食うのだ?」と聞いてくるので優恵は笑ってしまった。  この日は土曜日。日ごろ溜めてしまった家事をこなして買い出しに行き、日曜日には買ったものを使って一週間分の食事のストックを料理するのが優恵の日課である。  手際よく洗濯や片付けをしたあと、優恵は買い出しに出かけた。出かけるときに、幽霊が心配そうに見つめてくるので恥ずかしくなり「行ってきます」と言って家を出た。家にいる誰かに向かって、行ってきます、と言ったのは久しぶりだった。優恵は、それだけで温かい気持ちになっている自分に気が付き、いやいや幽霊だから、と心の中でその気持ちを否定した。それでも、自転車を漕ぐ足が軽くなっていることは否めなかった。  優恵は、子供の頃から苦手な食べ物が多かった。味覚が鋭いせいか、食べると気持ち悪くなることもあった。様々な材料が添加されている既成品は優恵にとってはノイズに感じられて、一口食べるとげんなりするのだ。結局、家で作る食べ物が一番快適に食べることができた。シンプルな白米、みそ汁、納豆といったものを好む子供であった。  一見すると偏食気味の子供だった優恵に、せっせと手作り料理を食べさせてくれたのが祖母だった。両親が共働きだったせいもあり、祖母がよく食事の世話をしてくれた。  その祖母は大の酒好きで、グラスの酒を飲みながら料理する姿を優恵は今でも覚えている。  成長して自分で料理が出来るようになると、材料にこだわるようになり、手間もお金もかかる食生活になっていった。  そのため、優恵にはコスメやファッションにかけるお金はない。美容院は年1回、化粧品はオールインワンの乳液1本のみ、オフの日の靴はコンバースのハイカットをずっと履いている。通信費も最低限しか使えない経済状態だった。  彼女の生活は、食を中心に回っていた。休日のお出かけも、スーパーのはしごで満足していた。 「さて…」  今日からは、自分だけでなく幽霊の舌も満足さねばならない。優恵は気合が入っていた。 「たくさん買い込んだのだな」  家に帰ると、幽霊は優恵の荷物を見て驚いていた。そして、 「今日は、何を作るのだ?」 と聞いてきた。優恵は慌ただしく、袋の中の物を整理したりボウルに水を張ったりしていると、幽霊はおなかをすかせた子どものように優恵のそばで彼女の手元を覗いている。 「今日は、お昼はまず簡単にお好み焼きをします。でも、いろいろ入るから楽しみにしていて。夕食は頑張って3品、アスパラガスのポタージュと穴子のマリネとチキンソテーです」  優恵は言いながら味を頭の中で反芻して、心の中で舌なめずりしていた。 「酒はなんだ?」  幽霊が聞いていたので、優恵はたまらず 「えへへ、冷やした白ワインです」 と踊る声で答えた。 「ふむ、ワインか」 「お嫌ですか?」 「いや、あまり馴染みがないだけでお前が好きならそれでいい。少しお猪口に昨日の酒を注いでおいてくれ」 「ああ、はいはい」 と返事しながら優恵は幽霊を見た。 「どうした?」 見つめられた幽霊の男が聞いてきた。 「昨日出会ったばかりなのに、お互いに気安いなって。私、コミュ障気味なのに可笑しいなぁて自分で思っちゃった」 「何を言っている。夢ではずっと以前から逢っていたではないか」 「そうなの」 「そうだ、まだ思い出していないのか?」  男にそう言われて優恵は、 「そうそう、ちょっとは思い出したんだ。でも、名前がどうしても思い出せなくて。私、お名前をお伺いしてましたっけ」 「おいおい、そこからか」  幽霊の男は呆れていた。  その週末の間、優恵は男から名前をなんとか聞き出そうとしたがそれは叶わず、男には「忘れたお前が悪い」とまで言われた。  日曜日には、バターロールを焼き、それに 卵やハムを挟んでサンドイッチにして食べたり、半分にスライスしたものに粒あんとバターを乗せておやつにしたりして楽しんだ。夜には祖母譲りのレシピである筑前煮をしたら、幽霊はとても喜んでいた。  酒が進んで、優恵は酔いに任せて男に聞いた。 「美味しいものを食べたら成仏する?」  男は少し言いよどんでいたが、 「目的を達成したらな」 と答えた。そして真剣な顔で 「私のことを思い出せ。お前は私を知っている」 とつぶやいた。  優恵は、男の答えが気にかかり、眠りにつくときにも (思いだせって言われても) と考えながら眠った。   優恵は、夢の中で水に浮かんでいた。そこがどこか分からなかった。優恵は薄明りの中、後頭部が水に浸かった状態で水面に顔を出し、体は水の浮力に身を任せていた。  そこへ誰かが近づいてきた。 「キヌエ、キヌエ」  その誰かはそう呼びかけてきた。  急に場面が変わって、ダムの見える高台の墓所が視界に入った。しかし墓所には入っていない。気が付くと小さな祠のそばに立っていた。何かの気配がして振り返ると、そこに幽霊の男が立っていた。その口から再び 「キヌエ、キヌエ」 と名が呼ばれた。 (それはお祖母ちゃんの名前だ) と、優恵は薄れてゆく意識の中で考えていた。  優恵が目を覚ますと、翌朝になっていた。  すぐに月曜日と認識した優恵は身支度をして、朝食を整えた。着替えながら、優恵は夢を反芻していた。夢の中で男が、祖母の名を呼んでいたことが気になって仕方なかった。  優恵がパンにかぶりついていると、幽霊の男が傍に座った。静かに微笑んでいた。 「今日は?」  男が漠然と聞いてきた。 「今日は、仕事だよ。できるだけ早く帰ってくるわ」  早口で優恵が答えると 「気を付けて行くんだよ」 と男が心配そうに言った。 「傘を持って行くんだ」 「傘?」 「この前、濡れただろう」  幽霊が親身になってくれていることが嬉しくて優恵は胸が暖かく感じた。  急に思い付いて優恵は 「今日、何食べたい?」 と訊いてみた。すると、男は 「塩茹でした空豆かな」 と答えた。優恵はドキッとした。それは、祖母の大好物だった。  優恵は恐る恐る男を覗いたが、男に変わった様子はない。 「お祖母ちゃん、空豆好きだったよ」 「そうだな」  男は表情を変えずに返事をした。 「お祖母ちゃんのこと、知っているの?」 「知っている。キヌエだろう。お前はよく似ている」  思いがけず、男の口から祖母の名が出て、優恵の頭の中で夢の声とシンクロした。 優恵は狼狽えた。狼狽を隠すために、傘を掴んで家を出た。 その日は男と祖母のことばかり考えていた。 優恵の推測では、夢は祖母の記憶であり、祖母はあの男とかつて会っていた。 つまり、当時の祖母の知り合いが幽霊になって自分に憑いてしまったのか、と合点がいった。彼が祖母のレシピの料理を好むのもかつてそれを口にしたことがあったのだろう。 そこまで考えて、優恵は複雑な心境になった。幽霊の男は、祖母の伴侶である祖父ではない。祖父は写真でしか見たことがないが、骨ばった輪郭の顔を持つ痩せた男であった。幽霊のような美男子ではなかった。 病弱だった祖父は早くに亡くなってしまい、祖母は母を女手一つで育て上げた。その時間の流れの中でこの優雅な男と祖母が出会っていたのだと思うと、祖母が秘めていた思い出に触れたような気がして、申し訳ない気持ちになった。  祖母を思い出しながら、優恵は夢で見た祠のシーンが気になって仕方がなかった。  みたことがあるような、無いような不思議な空間だった。そして夢で蘇ったのは、祠の映像だけでなくよく分からない幸福感だった。夢で見たことが祖母の記憶なら、その感情もまた祖母のものなのかもしれない。  リクエストの空豆を買うため、いつものスーパーに寄り、いつもの暗い道を考え事に浸りながら歩いていた。憶測ばかりが積み上がるので、考えがまとまらなかった。  そのとき、突然雨が降ってきた。優恵は傘を差すことに気を取られて、走り去る足音には気が付かなかった。 「ただいま」  部屋の扉を開けると幽霊の男が立っていた。「なにも無かったか?」 と訊いてくるので、優恵は 「雨が降ったよ。予想的中だね」 と明るく答えた。  夕食は、空豆の塩茹でと前日の筑前煮を食べながら晩酌をした。いつもの日本酒だ。  優恵は酔いに任せて、気になっていることを幽霊に訊いた。 「お祖母ちゃんとは、どんな関係だったの?」  男は少し考えて 「説明は難しいが、こうやって孫娘を見に来るくらいは近しかったと思うぞ」 と答えた。  優恵は酔った頭で、 (近しかった、とか分かりにくい説明だな)と考えながらいつものように眠りについた。  翌朝、優恵は幽霊の男を見て驚いた。どうも、透け具合が変わったように見えるのだ。見え方が濃くなったのだ。  優恵は最初は二日酔いのせいと思い、何度も見返したがどうやらそうではなかった。  男に確認すると、 「ああ、力が少しずつついてきた。お前が毎晩、酒を食事を供えてくれるからな」 と言うので、優恵はびっくりした。酒と食事の希望を叶えたらいつか成仏するかと思っていたのに、これでは成仏どころではない。  通勤途中、幽霊の変化に気を取られていると、公園の横に差し掛かったところで雨が降り出した。  優恵が傘を差そうとした瞬間、誰かに後ろから羽交い絞めにされ、公園の木立の間に連れ込まれた。  雨は一層激しくなったが、旺盛に茂った樹木の枝葉に遮られて雨の雫がぽつぽつ落ちてくる程度だった。  優恵は雫どころではなく、恐怖でパニック状態だった。勢いよく樹木に背を押さえつけられ、優恵は羽交い絞めした犯人と向き合った。そこにはフードを深く被った背の低い男がいた。フードの奥に見えた顔を見て、優恵はすぐにこの状況を理解した。 (ああ、この人は…)  この男は、優恵の大学の先輩で、優恵の人生で初めて告白されて、初めて断った人であった。その後も度々優恵に連絡してきたり会おうとしてくるので、その都度避けたり無視したりしてきたが、いよいよ実力行使に及んだようだった。 (まだ諦めていなかったんだ)  優恵が振りほどいて逃げようとしたとき、その手が優恵の首に巻き付いた。 (やばいやばい)  優恵が焦って藻掻いても、フードの男の力は強く振りほどけない。  雨はゲリラ豪雨のように一層激しくなった。  優恵の薄れていく視界の中で、夢で見た小さな祠が幻のように見えてきた。  その瞬間、幼い頃の記憶が結びついた。 (ああ、あの祠は…) 「水神様」  優恵がかすれた声で呟くと、ゴウっと竜巻が起きて、横殴りの雨がフードの男に降り注いだ。 「うわ」  彼が怯んだところに、滝のような水しぶきがあちらこちらから押し寄せ、フードの男は転んでしまった。  自由になった優恵は慌てて走り出し、少し離れたところから振り返ると川のように溢れた路肩の溝にフードの男は着流しの姿の男に踏みつけられていた。  踏みつけている男こそ、優恵が幽霊と思っていた彼であった。  優恵はびしょ濡れで突っ立ったまま、彼を呆然と見つめていた。  もう優恵には分かっていた。彼は幽霊などではなく、祖母が深く信仰していた里の水神様だった。彼はキラキラと水しぶきを身に纏う姿になっていた。  我に返った優恵は叫んだ。 「死んじゃう!」 「死んでもよい」  表情も変えず、威圧的に水神は言い放った。 「ダメ。それだけはダメ」  優恵は、走り寄って流れに顔を付けているフードの男を水から引っ張り上げた。  生きていることを確認すると、優恵は救急車を呼んだ。  雨はいつの間にか小降りになっている。  水神は、優恵の腕を掴み、 「帰るぞ」 と言った。  家に着いて、優恵はすぐに風呂に入った。風呂に入りながら、これまでのことを思い返していた。  最近感じていた、見られているような気配は幽霊に憑かれたわけでなく、あの先輩のものだったこと。 幽霊だと思っていたのは、故郷の水神様だったこと。  今まで優恵は供養にと幽霊に出した酒や料理は、水神様へのお供えだったということ。  お供えのお陰で水神様の力が戻り、私を助けてくれたこと。  そして、水神様が優恵を助けたのは、祖母のお陰らしいということ。  優恵は、死んでもなお自分を支えてくれる祖母の愛情の深さに涙がこぼれた。  風呂から出て髪を乾かし、一息ついたところでどこからともなく水神様が現れた。  その姿は、水面が波打つ度に光が反射して煌めくようにキラキラと輝いて見えた。 (お美しい)  優恵は実体化したその姿を見られただけで、幸せな気持ちになった。 「先ほどは、ありがとうございました」  優恵は風呂からでたらすぐに言おうと思っていた感謝の言葉を言った。 「お前が無事で良かった。あの男は、ずいぶんとお前に執着があるようだ。キヌエがとても心配している」  水神様は優恵の右肩あたりを指さして言った。その手は滑らかな動きで優恵の髪に移動した。 「お前は気がついていなかったが、キヌエの墓所の近くに私の祠があってな。その前を通るお前の歩き方とこの髪の毛がまさしくキヌエだったのだよ」  優恵はドキリとしたが、水神の祖母を懐かしむ様子に胸が静まった。 「おばあちゃんが水神様に助けを求めたんですか」 「ああ、お前が生まれてからずっと、死ぬまでな。いつまでも孫娘が穏やかに暮らせるよう祈っていた」  優恵はその言葉を聞いて、再び目頭が熱くなってきた。 「もともとの私の祠はダムの底に沈んでしまった。かつての村人が高台の隅に新しく作ったが、私はうまく移れなくてな。そのせいか分からんが、村人たちもあれほど信仰してくれていたのにまったく祠に寄り付かなくなってしまった」  優恵の頭をなでながら、水神はつぶやくように語っている。その静かな声を聴きながら、優恵は、心が揺さぶられるように喜んでいる自分を他人事のように感じていた。 (ああ、お祖母ちゃんが喜んでいるんだ)  優恵の脳裏には、フラッシュバックのようにキヌエが水神に助けられているところや毎日キヌエが白木の祠に酒を供えている様子が見えた。 「でも、お祖母ちゃんは違った?」  優恵がそっと尋ねると水神は優しく微笑むだけだった。 「さて、そろそろさらばだ。また逢う日もあるであろう」  水神はそう言葉を残すと、跡形も無く姿を消してしまった。 (行ってしまわれた…)  部屋に残された優恵はただ涙が流れていくのに任せて、その場にしゃがみこんだ。  しばらく泣くだけ泣いた優恵は、ぼんやりと過ごしていたがふと昼食時間になっていることに気が付いた。そう思ったら急にお腹が空いてきたのだ。  仕事は休む連絡を入れたので、優恵は昼から飲むことに決めた。  故郷の日本酒を自分と水神と祖母のために3つの猪口に注ぎ、昨日の空豆と作り置きしていた鶏肝の味噌漬けを出して、 「召し上がれ」 と空に声をかけた。  優恵はただ守ってくれた方々に感謝の気持ちを示したかっただけであった。  すると、右肩がじんわりと熱くなり、外では天気雨がすごい勢いで降り出して、優恵のアパートの窓を叩いた。 「え?」  優恵がびっくり外を見ていると、すぐに肩の熱は取れて、雨も止んでしまった。 (なんなんだろう)  仕切り直しのように、優恵は机に座り直すと、目の前に水神がいた。 「うまそうな香りがしたからな」 「え、帰ったんじゃないんですか」 「まだまだ、味わい足りんささ。しばらく傍にいるからそのつもりでいてくれよ」  その言葉に優恵の口元は緩んでいく。 「もっと、肴作りますね」  優恵は急いでキッチンに向かった。水神はその姿を美しい弧を描く目で見送った。  
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