通り雨の降った日

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 小百合は書類の入った封筒を持って街を歩いていた。  会社の取引先から預かっていた資料を返しに行くだけのお使いだ。待ち合わせの場所はあるホテルの一階の喫茶店だった。ホテルの外からでも気軽に入ることのできる作りの店だ。  空は晴れていたが、その店の入口に書かれた店名が読み取れるようになった頃に、小百合の頬に雨粒があたった。歩きながら上を見上げ、手のひらを空に向けてみる。一粒、二粒、また雨があたった。  通り雨か、と、小百合は足を速めた。  店に入る前に、ゴロゴロと雷の音が聞こえた。  広い店内に客は少なかった。真ん中辺りに二人の男と、奥に一人の男、テーブルを一つあけて一人の女がすわっている。昼にはまだ遠い午前中だったせいかもしれない。  待ち合わせの相手はまだ来ていなかった。  白いシャツに黒い蝶ネクタイをつけた、古典的なスタイルのウェイターがテーブルまで案内してくれる。店は広いのに、小百合は一番奥の窓際の席に案内された。小百合はウェイターの顔を見てみる。三十才前後と思える、涼しい顔立ちの男だった。椅子にすわると、今度は中央にいる二人組の客に目をやる。こわもてな風貌の男たちだ。小百合は、かな?と思った。それでウェイターは一般人風の客をこの二人から離れた場所へ案内しているのかもしれない。だとしたら、とても気の利いたウェイターだ。  ふと、ウェイターと目があった。  ウェイターはごく自然に、にこりと微笑んだ。 「ご注文はお決まりですか?」  小百合はブレンドコーヒーを頼んだ。ウェイターが去って行くと、外が薄暗い事に気付いて窓を見る。窓と言っても壁全体がガラス張りになっていて、風を通したい時にはそのガラスの壁の一部が開くようになっている。だから窓だけでなく、壁を通して外の様子はよく見えた。  いつの間にかに、雨は強くアスファルトを打ち付けていた。  傘は持ってきていない。  ここを出るまでに雨がやんでくれたらいいのだが。  小百合は小さなため息をもらして腕時計を見た。約束の時間の五分前だった。  近くのテーブルの女を見た。背中しか見えないが、何かテーブルの上で物を書いているようだった。その向こうの男はのんびりと新聞を読んでいる。二人ともこのホテルの客なのかもしれないなと思った。  あのやくざ風の二人もここに泊まっているのだろうか?  先ほどのウェイターがコーヒーを持って戻ってきた。ウェイターはカップをテーブルに置くと、言った。 「失礼ですが、お客様。お連れの方をお待ちでしょうか?」 「ええ」 「それでは、お連れの方がいらっしゃいましたら、またご注文を伺いに、」 「あ、いえ」  小百合はウェイターの言葉をさえぎる。 「来られたらすぐに帰るんです。すみません。これ、渡すだけなんです」  小百合は封筒を手に取って見せた。ウェイターは頷く。 「会社のお使いなんです」  小百合が微笑んで言うと、ウェイターも笑顔を見せた。 「承知いたしました。それではごゆっくり…」  ウェイターは言いかけて、言葉を一旦切る。そして続ける。 「ゆっくりは出来ないんでしたね」 「はい」  二人は小さく笑った。 「それでは、失礼いたします」  と言って、ウェイターは去った。  雨は降り続いている。  小百合の見ているガラスにも、雨粒の走った跡がいくつか付いている。  通りの向こうでは、傘を待たない人が小走りに先を急いでいた。  建物と道の間に植栽がある。花はないが、新しい葉が所々に伸びて、その明るい緑色が美しかった。  葉が雨を弾いて、軽やかに揺れた。  どうせならしばらくこのまま降り続いて、ここで雨宿りして行くのもいいかな、と小百合は思う。  しかし、雨脚は徐々に衰えていった。  辺りが先ほどよりも明るくなった。  もう、すぐにやんでしまうだろう。 「ごめん、待たせた?」  声に気付いてそちらを向くと、待ち合わせをしていた男だった。小百合は椅子から立ち、封筒を手に取った。 「いいえ」  営業スマイルでそう言う。  と、ドスッという低い音が続けて二回聞こえた。  音と言うよりは、振動と言った方がしっくりくると思えた。  その方を向く間もなく、ガラスの割れる音が店内に響く。小百合が音の方を見た時には、中央にいた二人の男は床に倒れていた。一人は完全に床に仰向けに、一人は片足だけ椅子に乗っている。二人の頭部からは血が流れ、白い床にそれは広がっていた。水の入っていたグラスが床で割れ、水が流れていた。血と水が、交じり合った。  すぐそばに、あのウェイターが立っている。  彼は左手に持っていた銀色の丸いトレーを、静かにテーブルに置き、しゃがんで、倒れた二人の首に手を当てる。そしてすぐに立ち上がる。  そして、小百合の方を見た。  ウェイターと小百合は目があった。  ウェイターは静かに小百合を見つめた。  右手には銃のような物を持っていた。  トレーには血が付いているように見えたが、ウェイター本人には、小百合の場所から見る限り、血の跡はなかった。  ウェイターは左手で蝶ネクタイを外して、銃と一緒にトレーの上に置いた。  そして、もう一度、小百合を見た。  小さく微笑む。  ウェイターは、小百合が入ってきた所から外へ出た。  通りを歩いて行った。  店にいるもの全てが言葉を失っていた。  ウェイターが出て行った後、少しして客の女が叫び声をあげた。それから慌てたように、店の奥で電話をかける声が聞こえてきた。  小百合は、夢から覚めたような気がした。  書類を取りに来た男を見た。男はあ然としていたが、小百合に目を向けると、何かを言いたそうに口を開けた。しかし、言葉は出てこなかった。  小百合は、手に持っていた封筒をしばらく見つめた。  そして、男にそれを差し出した。 「これ、お預かりしていた資料です」  そう言って小百合は、男に封筒を手渡した。  通り雨はやんでいた。
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