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「元リンドバーグ侯爵令息、婚約する」の巻
「ゼン、婚約に同意するのならここにサインしなさい」
リンドバーグ侯爵邸の執務室には、おれとコトラとリンドバーグ侯爵夫妻、それからママンの腕の中にアンがいた。すでにリンドバーグ家から籍を抜いて平民となったおれにとって、アンは妹ではなく赤の他人。そして、目の前の紙にサインをすればアンはおれの婚約者になる。
「侯爵様、本当にそれでよいのですか? 魔力もなく二十歳も過ぎた異世界人が婚約者だなんて、アンがかわいそうで……」
「侯爵様などと居心地悪い呼び方をするな。さっさとサインしてパパンと呼んでくれ」
「夫人は嫌じゃないんですか? アンが成人する頃には、わたしは三十半ばのおっさんですよ?」
「〝夫人〟?」
笑顔の睨みに堪えられず「ママン」とおれは口にし、内心ため息を吐いた。
リンドバーグ侯爵は(本性はおいといて普段は)穏やかな人だが、侯爵夫人は重力魔法でも使っているのではと思うくらい笑顔の圧がすごい。声を荒げることはないけれど、淡々とした口調と百種類くらいありそうな笑顔のバリエーションで有無を言わさず意見を押し通す。
「アン、婚約破棄したくなったら遠慮せず言うんだぞ」
おれはアンの頭を優しくなでる。
「婚約破棄するときはいきなり舞踏会に別の男を連れてきたりせず、なるべく穏便に頼む」
「でん」
アンが舌足らずな声でおれを呼んだ。
「アンはゼンと結婚したいわよね〜。そうしないとゼンは旅に出たまま帰って来ないかもしれないわよ〜」
笑顔で一歳児を丸め込もうとするママン。
「でん、けっこーん」
「そうよねえ。アンはゼンのことが大好きだもんね〜」
「でん、しゅきー」
やべえ、かわいすぎる。
かわいすぎるがこれは小さな子どもに相対したときに湧き上がる一般的な感情であって、間違ってもそういう性癖なわけではない。
ウホン、とパパンが咳払いした。
「ゼン。君がこの婚約を拒むなら当然コトラを連れて行かせるわけにはいかない。コトラはアンの召喚獣だからな。君の体に埋め込んだマナ石も返してもらおう。骨にマナ石を埋め込む施術は何度も実験して痛みなくできるようになったが、マナ石の摘出はわたしも妻もやったことがない。どのくらい痛むかわからんが、まあ死にはしないだろう」
「パパン……」
三年同じ屋根の下で過ごして最近ようやく気付いたパパンの本性。オリビアとの婚約破棄ではパパンに助けられたけれど、笑顔で脅してくるパパンは敵に回しちゃマズいタイプだ。
パパンの言ってることは正しい。魔塔を目指すなんて無謀な旅に他人の召喚獣であるコトラを巻き込み、おれのしょぼい魔術のためにマナをもらおうなんて図々しいにもほどがある。本当の兄妹でも頼めないようなことを、おれは赤の他人にお願いしようとしていたのだ。
「それにだ、ゼン」と、パパンは続ける。
「万が一ゼンが異世界人と知られたらグブリア帝国ではどうなると思う?」
おれはゴクリと唾を飲む。そのシミュレーションはすでに済んでいる。
「拘束されて、おれを召喚した魔術師の捜索が行われます。召喚術はグブリア帝国では黒魔術とされ違法ですから。捕まった魔術師は火あぶりの刑になりますが、」
「ゼンを召喚したのはわたしだ。ゼンはグブリア帝国の人間に己の召喚者を問われたらなんと答える?」
「そうなる前になんとかします。そもそも魔獣でもないわたしが召喚されてこの世界に来たなどと考える者はいないはず」
「なるほど。では、ただの平民のゼンはどうやって魔塔主に近づくのだ?」
ぐうの音も出ない。
おれはコトラがいなければただの異世界人。魔力も金もない、しがない平民。そもそもコトラ抜きで魔塔にたどり着けるはずがなく、よしんばたどり着けたとしても丸腰で魔塔主の前に姿を晒す勇気はおれにはない。なんてったって魔塔主は世界最強。おれがそういう設定にしたのだ。
「そこでだ、ゼン。アンと婚約するなら、まずコトラを連れて行くことを許す。体に埋め込まれたマナ石もそのままにしておこう。それから、怪しまれずグブリア帝国へ入国できるよう手はずを整えてやる」
「えっ!」
「しかも、その方法なら運が良ければ魔塔主とも会えるかもしれん」
「ええっ!」
「ギャクハ―王国は鎖国政策をとっているからグブリア帝国との間に正式な国交はない。だが、リンドバーグ領の出島だけは外国船との貿易が許されている」
そうなの?
ギャクハ―王国に海があることすら知らなかったのだが、酔っ払ったおれが勢いとノリで作った穴だらけの設定は、なんだか聞いたことのある設定で補完されているらしい。
……ってことはもしかして、
「パパン。今さらなんですがギャクハ―王国って島国ですか?」
「なんだ、ゼン。そんなことも知らずにグブリア帝国に行くと言っていたのか?」
やっぱりそうか。
ビール飲みながら構想を練ったギャクハー王国は、なーんとなくグブリア帝国の南西方向にあって、小説で登場するもう一つの国、バンラード王国の西側あたりをイメージしていた。まさかその二つの隣国との間に海があろうとは。
「ゼンはグブリア帝国のことにはすごく詳しいのに、ギャクハ―王国のことはあまり知らないのね。本には書いてなかったのかしら?」
ママンは不思議そうに首をかしげる。マネしてアンも首をかしげた。めちゃかわええ。
「えっと、わたしが読んだのはグブリア帝国に関する本で、周辺国のことはほとんど書かれていなかったので」
ということにしている。
ここがおれの書いた小説の世界だなんて口が裂けても言えない。だから、グブリア帝国が隣国と知ったとき「召喚前の世界で読んだ本にあった」ということにし、いくつか領地の名前を挙げてママンとパパンに確認したのだ。そして、ここが小説の世界であることを確信した。
おれは創造主を名乗る気はない。この世界に世界樹信仰以外の宗教が生まれると話がややこしくなる。物語が進めばいずれ聖女が現れるのだから大人しくそれを待てばいい。
もしおれがこれから起こる災厄を予言し、世界の創造主として崇められたとして、民衆は災厄を前に「ゼン様何とかしてください」とおれに泣きついてくるだろう。だが、おれには何もできない。災厄をどうにかできるのは世界最強の魔塔主と、歴代最高のオーラを発現したグブリア帝国皇太子、そして聖女だ。
「そういえば、パパン。魔塔主の名前知ってますか?」
「ノードだ」
登場人物の名前はまだつけていなかったが、ちゃんと名前があるらしい。
ノード。
ちょっとあっさりし過ぎでおれ好みではないが、アノ子が書いた小説に出てきそうな名前だ。もしかしたらおれの構想ノートが本当にアノ子の手に渡って、アノ子が登場人物に名前をつけ、物語を書いてくれたのかもしれない。
――なんて、さすがにそれはあり得ない。でも本当にそうだったらおれは泣く。うれし泣きではなく、無念の涙を流す。
アノ子が書くのは主に宮廷を舞台にした恋愛もの。タグ付けされるのは「#逆ハーレム」または「#溺愛」。軽いノリのラブコメだから帝都付近と領地ひとつくらいの舞台設定があれば十分で、おれが緻密に練り上げた世界設定のほとんどが裏設定になってしまう。
「魔塔主の名前も知らないだなんて、少々不安になってきたぞ、ゼン。お前の言っていた災厄というのは本当に起るのか?」
「魔塔主の名前は知りませんが、彼が二百年前に滅亡したイブナリア王国の魔術師であったこと、そして帝国皇室と契約を交わし魔塔主となって魔塔で研究を行っていること、(中略)また魔塔を建設する際に苗木の一本一本に魔術を施し、植樹した範囲だけでマナが循環するように魔塔の林を作ったこと、それから」
「わかったわかった。信用するよ、ゼン。だが、その知識はわたしたち以外の前で口にしない方がいい。魔塔の林をどうやって作ったかなど、おそらく普通の人間は知らない。そういう意味では魔塔主とグブリア帝国にとって、ゼンは危険人物なんだよ。そのことは自覚しているかい?」
「おれが……危険、人物?」
「どうやら自覚していなかったらしいな。魔塔主に会えたとしても、『災厄が起こる』なんて直接言ってはダメだよ」
たしかにパパンの言う通り予言めいたことは口にしない方がいい。それに、おれが予言するまでもなく魔塔主はいずれ災厄が起こることを知っている。おれはただ、今起こりつつある世界の変化を「おれも気づいている」と言うだけでいい。そのためには直行で魔塔へ行くよりも、先に辺境域の状況を調べた方がいいかもしれない。
「わかりました、パパン。助言ありがとうございます」
「じゃあ、婚約成立ってことでいいな」
あっ、そうだった。
「不束者ですが、これからもよろしくお願いします」
「アンの顔を忘れないように、一年のうち少なくとも二週間はこの家に戻って来ること」
「えっ、それは無理じゃ……」
「大丈夫。ちゃんと帰って来られるように手はずを整えたからゼンは心配しなくていいよ」
「はあ」
いったい、これから始まる物語はおれの〝冒険譚〟なのだろうか。それともおれとアンの年の差ラブコメ?
ママンは笑顔でおれにペンを握らせ、おれは法務院に提出する婚約届にサインする。アンのサインはパパンが代筆し、ママンが「うふふ」と満足げに笑った。
「アン~。未来の旦那さんにチューしてあげましょう。誓いのキスよ〜」
「でん、チュー?」
殿中でござる、殿中でござる。
(おれの現実逃避はスルーしてくれて構わない)
「そう、ゼンとチュー」
ママンはアンの両脇を抱えておれの目の前に持ってくる。一体何をさせられているんだと思いながら、おれは誓いのキスとよだれを受け入れた。これは恋人のチューではなく親愛のチュー、家族のチューだ。
心に秘めた「アノ子とのキス」という最終目標は変わらない。だが、日に日にアノ子の顔がおぼろげになっていく。
「ゼン、浮気したらチョン切るからな」
「えっ?」
パパン?
「グブリア帝国の皇族貴族は一夫多妻制らしいがギャクハ―王国は一夫一婦制だ」
ギャクハ―王国なのになぜ一妻多夫ではないのだとツッコミを入れたいところだが、未設定部分の自動補完機能におれは感謝している。もし一妻多夫制だったら、ジョージ・ファイアストンとの不貞行為を根拠にオリビアとの婚約破棄を申し立てることはできなかった。「ジョージとも婚約したの」と言われれば終わりだ。
しかし、おれは今その自動補完機能による一夫一婦制で困難に直面している。
アンが結婚可能年齢に達するのは十五年後。当初の予定通り魔塔主と会って元の世界に戻ることができればチョン切られるのは回避できそうだが、もし元の世界に戻れなければおれは三十六才まで童……。
いやいやいやいや、さすがにそれは。
「心配するな、主。ゼンの浮気はわたしが見張っておいてやる」
コトラがママンの腕に抱かれたアンに誓う。
「でん、うわき、めっ」
意味がわかって言っているはずもないのだが、未来の大魔導士の「めっ」におれが太刀打ちできるはずもなかった。それとも、やはりアンのチート級魔力は彼女が転生者だからで、すべて理解しておれをからかっているのだろうか。
『異世界転生したらチート級魔力をゲットしたけど二十歳年上の魔力ゼロ異世界召喚者と婚約することになりました』
タイトルを聞いた瞬間「ドンマイ」って言いたくなる、どう考えても異世界日常系コメディ。アンがまともに会話できるようになったら転生者かどうか確認しなければいけない。
それよりも、おれはこれから始まる冒険の旅に一抹の不安をおぼえた。異世界ファンタジーに恋愛要素ゼロというのは面白みに欠ける。メインストーリーが冒険だとしても、人間模様を描くため恋は重要なスパイス。アンがいるじゃないかとツッコミを入れた人は廊下に立ってなさい。ハイハイを卒業したとはいえ、まともにおれの名前も呼べない一歳児にどうやって恋愛感情を抱けというのか。何をしても犯罪にしかならん。
「でん、だっこ」
おれの首に手を回して抱きついて来るアン。かわいい。死ぬほどかわいい。おれが犯罪を犯さないよう誰か見張っててくれ。
「ほんと、お似合いね~」
ママンの思考回路理解不能。
「リンドバーグ家を継ぐのに申し分ない夫婦だな」
パパンの(以下同文)。
「ところで、パパン。パパンが言ってたグブリア帝国に入国する方法を教えてもらえませんか。魔塔主に会えるかもしれないんですよね」
「それなんだが、ゼンをグブリア帝国皇室公認のサーカス団に紹介しようと思う。船上でサーカスを行うのだが、あのサーカス船には魔塔が絡んでいるからな」
皇室公認のサーカス船。おれはそれに心当たりがある。
「もしかしてリンカ・サーカス団ですか?」
「知ってるのか?」
「ええ」
おれが考えたので。
「パパンはリンカ・サーカス団と繋がりがあるんですか?」
「まあな。サーカス船はリンドバーグ領の出島に何度か来てるんだ。サーカス用にマナ石を埋め込んで調教しやすくした魔獣を売ったこともある」
「国交もないのにグブリア皇室公認のサーカスが来るんですね」
「出島の対岸の、アルヘンソ辺境伯とは取引があるんだ。あそこは帝国に属しているとはいえほぼ独立国。皇家はアルヘンソを手懐けるのに必死だから、うちと多少取引したくらいでアルヘンソ辺境伯が咎められることはない。ちなみに、出島にサーカス船が来るようになったのはアルヘンソ辺境伯の姉君が皇后になってからだ」
「皇后が亡くなってもサーカス船の寄港は続いてるんですね」
「何を言ってるんだ、ゼン。皇后は死んでなどいないぞ。ちょうど今、六歳になる皇子を連れてアルヘンソに帰って来ているはずだ。帝都には運河が通っていないから、この機会にサーカス船を皇子に見せようと辺境伯領に船を呼んだらしい。うちに寄港するのはそのついで。通常なら二週間ほど停泊するのだが、今回は五日間。到着は今日だ」
「今日?!」
パニックに陥りかけていた。
おれが考えた設定のままならグブリア帝国の皇后はすでに死んで、皇后の座は空位。皇子は十七才。十四才になる皇女が別宮に住んでいるはずなのだが、現在皇子が六歳ということは皇女は三才。生い立ちが複雑な皇女はまだ平民として暮らしていることになる。
おれがこの世界に召喚されたのはどうやら皇女が誕生した年。どうして主人公の皇太子が生まれた年ではなく妹の皇女が生まれた年に? と構想ノートの神様に頭の中でツッコミを入れたが返答はない。
災厄が起こるのは小説のクライマックス。早くても今から十二年後だ。災厄はこの世界の人たちに任せて元の世界に帰る方法を探そうかと頭を過る。
「おお! マジすげえな、このスクロールってやつ!」
突然の聞き慣れない声に背後を振り返った。
「久しぶりだな、リンドバーグ子爵殿! じゃなくて侯爵になったんだった。おうおうおうおう、この子がやっとできた娘っ子か。やべえ魔力持ってるじゃねえか」
衣服は貴族っぽいわりに所作と着崩し方がやんちゃなオッサン。彼は無遠慮に近づいて来ると、おれの腕に抱かれたアンの頭をグローブのようなでっかい手のひらでなでようとした。おれは思わずヒョイと避ける。
「なぜ避ける」
「いや、なんとなく」
「お前が転移魔術付与巻物を考えたっていう魔力ゼロ男か」
「あなたはリンカ・サーカス団の団長ですね」
「鋭いな。兄ちゃん」
「そうですね。あなたの正体も知ってます」
「何の話だ?」
パパンとママンは首を傾げている。
「コトラはわかるだろ?」
「まあ、ゼンが何を言いたいかはわかる」
会話の流れはそっちのけで、男は魔獣が喋ったことに歓喜した。
「こいつが一緒に連れて行けって言う召喚獣か! 思ったより小さいな」
「いや、普通はこれくらいだ」
コトラが子どもサイズから成獣に戻ると、アッハッハと男は豪快に笑った。
「こいつはいい。魔力ゼロ男はどうでもいいが、この召喚獣を貸してもらえるなら魔力ゼロ男一人くらい養ってやらんでもない」
ちょっと待て。
「おれはいらんがコトラはいるってことか」
「当たり前だろう。お前に一体何ができる」
養ってやらんでもない、などと言われて黙っているわけにはいかない。下手したら下働きとして魔獣の排泄物処理班に配属されかねない。こいつはそういう性格だ。おれがそうした。
「魔力はないが、コトラがいれば魔術が使える」
「コトラがいれば、ねえ。召喚獣におんぶに抱っこだな」
「それだけじゃない。術式の組み立てはそこら辺の魔術師よりも早い。あんたも知っての通りスクロールはおれの発案によるものだが、それ以外にもいくつか考案中だ。(中略)術式解析も得意分野。サーカス船で役立つのは状況に応じた術式の調整だろう。サーカス船の主な寄港地は把握しているし、領地ごとの気候風土や文化も頭に入っている。あとは、動物について多少知識があるから魔獣管理もおそらくできる。ショーに使う道具への魔術付与もコトラからマナをもらえば可能だ。それから」
おれが意図的に言葉を切ると、仏頂面で聞いていた男がニヤッと笑った。
「なんだ?」
「あんたの話を聞いてやれる」
「どういう意味だ?」
「真実を知りながら話す相手がいないのは辛いと思ってさ」
男の表情が揺らいだ。
そりゃそうだ。この男は世界の変化に気づいている数少ない登場人物の一人。魔塔主に依頼され、サーカス船で帝国を巡回しながら調査を行っている。つまり、おれはパパンから魔塔主への最短ルートを紹介されたことになる。しかも、おれはこの男の弱みを知っている。
「おれと話すのが嫌ならコトラと話せばいい。似た者同士だろう?」
リンカ・サーカス団の団長は獣人だ。獣の字がつくとはいえ召喚獣と獣人は別物だが、団長はチーターの獣人。コトラと同じネコ科の大型肉食獣だ。
「お前、とんだ食わせ物だな。リンドバーグ子……侯爵殿もよくこんな生意気なクソガキを娘の婚約者にしようと考えたもんだ。しかも娘が成人する頃にはおれと同じくらいオッサンだぞ」
「サバ読んでんじゃねえよ。あんたもっと年上だろ」
「あらあら」と、ママンが楽しげに笑った。
「わたしたちの息子はこんなやんちゃな一面があったのね。あなた知ってた?」
「いや、わたしたちにもこれくらい気安く話してくれたらいいのに、団長殿が羨ましいよ」
「いくら家族でも尊敬するリンドバーグ夫妻にこんな言葉遣いはできません」
クックッ、と団長が嫌らしい笑みを口の片側に浮かべた。
「おれの世話になろうってやつが、そんな口のきき方していいのか?」
「世話になるからだ。あんたは堅苦しい言葉遣いが死ぬほど嫌いなはずだろう?」
だって、おれがそういう設定にしたんだもん。
「言葉遣いを改めよとおっしゃるのでしたら今すぐにでも改めさせていただきますが、どういたしましょう。リンカ・サーカス団団長様は身を粉にして世界のために尽くされているわけですし」
「やめろやめろ! 背筋がむず痒くなる」
「背中、掻きましょうか?」
まったく、と彼は肩をすくめた。これくらい言っておけば雑魚扱いされることはないだろう。
「おい、お前のサーカス団での役割を決めたぞ。道化師だ」
えっ!
「それはあんたの役だろ」
リンカ・サーカス団の団長は取引相手以外には正体不明で通している。ほとんどのサーカス団員がこの男をただの道化師と思っているのだ。
「なんでお前がそんなことまで知ってるのかしらんが、いちいち驚くのも面倒だ。とにかくお前はおれの代わりに道化師をやれ。魔力はなくてもそれだけハッタリかませるなら十分だ。魔獣のクソ掃除か、道化師か、好きな方を選べばいい」
クソッ!
「でん、くそ」
「アン、おれは糞じゃないよ。君の婚約者は魔獣のクソ掃除係じゃなくて、サーカス進行役の道化師だからね」
「でん、どーてーし」
どーてー……
「ど・う・け・し」
お似合いだな、と団長がからかうような笑みを浮かべる。それはアンに失礼だろう。
アンはおれと違って将来有望なチート級魔術師。災厄がこの世界に降りかかる頃、彼女は十三、四才くらいになっているだろうか。その頃にはギャクハ―王国の人々から「大魔術師様」と崇められ、おそらく最前線で戦うことになる。
おれは覚悟を決めた。
「アン」
「でん、どーてし」
「アンも浮気しちゃダメだぞ」
「アン、ぅわき、めっ?」
「そう。うわき、めっ」
ウフフ、とママンが満足げに笑う。
おれはここ数か月オリビアの(自主規制)や、(自主規制)に堪え、すでに悟りを開いた身。ふと、これから始まる物語のタイトルが頭の中に下りて来た。
『異世界召喚された魔力ゼロ男はチート級魔術師と婚約したけどサーカス船で道化師として禁欲生活を送ってます~キャッキャウフフは災厄の後で~』
おれ、ドンマイ。
まあいい。うら若き婚約者と(自主規制)はできなくてもキスはやりたい放題だ。これは親愛のチュー、家族のチュー、愛する伴侶へのチュー。
「あらあら、ゼンったら。そんなにアンと離れ離れになるのが寂しいのね」
殿中でござる殿中でござる。アンの純粋無垢なキャッキャウフフが炸裂した。
おれがコトラとリンカ・サーカス団団長とともにリンドバーグ侯爵家を後にしたのはその数時間後。ホワイトタイガーの背に乗ったおれは後ろから団長にしがみつかれている。チーターの獣人なんだから自分で走ればいいものを、見た目や態度とは裏腹に慎重な性格の団長は、ギャクハ―王国内で獣の姿に戻るつもりはないようだった。
暮れかかった夕空に、白っぽい月がひとつ昇り始めている。
「そういえば、団長のことはなんて呼んだらいい? 正体隠してるのなら〝団長〟はマズいだろ?」
「名前で呼べばいい。さんも様も殿もいらん」
「団長の名前は?」
問いかけに返事がなく、振り返ると団長がうんざりした顔をしていた。
「あれだけおれのことを知りながら、なんで名前を知らないんだ」
だってまだ決めてなかったんだもん。
「エドジョーだ。エドでいい」
「エド……ジョー」
殿中でござる。
「まあ、お前がおかしいのはよくわかった。時間はたっぷりある。色々聞かせてもらうさ」
「おれも色々聞かせてもらいたい」
「腐るほど情報を持ってるようだが、それ以上何が知りたい」
「とりあえず辺境域でのマナ滞留症状について、かな」
エドはしばらく押し黙っていたが、おれは振り返らずにいた。マナ滞留症状は災厄の前兆のようなものだ。
「まったく、七面倒なヤツを預かっちまったみたいだ。だが、お前が信用に足るやつかどうか判断するのはおれじゃねえ。わかるよな?」
「ああ」
魔塔主の信頼を得られなければ、おれは危険人物としてどんな扱いを受けるかわからない。クソ掃除では済まないだろう。
「おれはエドの役に立つ。魔塔主の信頼も得てみせる。そして災厄からおれの家族と婚約者を守る。たぶん、それがおれがこの世界にいる理由だ」
からかわれるかと思ったが、背後からは「ふうん」とだけ聞えてきた。
夜空には二つ目の月が昇った。東の空に赤銅色の月、西の空に青白い月。赤と青の月が東と西に四十五度の角度にある時、もっとも安定した状態で悪魔を召喚できる――そんなふうに構想ノートに書いた記憶がある。
おれの物語が異世界ラブコメになるのか、異世界禁欲スローライフになるのか、背中に密着してるオッサンのせいで異世界BLに発展するのか知らないが、おれの考える物語はつねにハピエンだ。おれには幸せなエンディングが待っている(はず)。災厄を乗り越えてキャッキャウフフな日々が待っている(はず)。
物語はようやく幕を開けた――。
【完】
ちょっと待て。そんな急に連載打ち切りになったマンガみたいな終わり方があるだろうか。おれだってちゃんとがんばってるし、道化師として働いてる。働いているおれはチョイ役道化師▼
『魔獣狩りが趣味の獣人令嬢は政略結婚を迫られたので騎士団に入ることにしました』
https://estar.jp/novels/25987962
ということで、おれが主役の物語は強制的に終わりらしい。本編のチョイ役でまた会えるはず(たぶん)。
『リンドバーグ子爵令息、婚約破棄される』
【―完―】
・・・・・・・
物語は次章【獣人狩りと大公の陰謀編】へと続きます。獣人がメインのお話。サーカス船も登場する予定です。
シリーズ作品一覧▼
https://estar.jp/series/11779140
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