快晴までのあいだ

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 少年にとって、貯水タンクの上に登るという行為は生まれて初めての行為だった。湾曲した梯子を登り、苔むしたその円滑な表面に足を取られそうになりながら、少年はタンクのうえ、丸い形状の蓋のうえに腰かける。宙からは雨が降り続いていた。  やはり、雨の始点はどこにもない。  いずれの雨滴も何らかの化学反応のように突発的に姿を顕すと、飛び降り自殺でもするみたいに「すっ」――と消えていく。雨の日はまるですべてが裏返ってしまったかのようだ。普段は騒がしい世界に、まるで仕返しをするみたいにうるさい雨音が、無為に無意識に無作為に、降り注ぐ。  零落の狭間に吐く呼気は、季節違いにも白く化けて、そしてすぐさま夏の暑さの前兆に掻いて消されてしまう。断続的と捉えようとすれば連続的となり、その逆も然りの景色を眺めながら、少年は空を見上げた。  雲。  それ以外には、まるで何もない――その何もない空間の狭間から、雨滴はどこからともなくやってきて、少年を過ぎて落ちていった。  少年はレインコートなどを着衣していなかった。少年は普段着のままそこに立ち、雨がどこからやってくるのか、その始終を見守っていた。衣服は濡れて、少年の身体に張り付いてしまっている。髪も濡れてところどころが枝垂れ、その先端からしずくが垂れていた。  少年は思いついたかのように、不意に、ポケットから金色の箱を取り出した。それは箱というには少し小さすぎたかもしれない。それは例えば、ペンケースや眼鏡入れといったほうが適切であるように思える。しかしそれでもその「箱」の役割を考えれば、それは箱以外の何物でもなかった。  少年は爪をたてると、蓋との間にその爪を入れ、力を込めてこじ開けた。開いたその箱の中には、小さなペンダントが入っていて、それ以外には何もなかった。  少年はペンダントを取り出す。ペンダントは縦に楕円形で、横に開くような形になっていた。少年はそのペンダントを開くと、その中に入っている、一枚の写真を見つめ始めた。  その写真がどのようなものなのかは、私たちには分からない。それは例えば、幼い彼のさらに幼いころの写真なのかもしれないし、彼の恋人の写真なのかもしれない。大好きなペットの写真なのかもしれないし、友達やチームメイトの写真なのかもしれない。家族の写真かもしれない――けれど、その写真になにが写っているのか、それはさほど重要なことではない。とても大切なのは彼がその写真を眺めていること。見つめていること。その写真に想いを寄せているのだ、ということ。ただそれだけなのだから。  しばらくして、少年はそのペンダントの蓋を閉めて、それから箱から取り出すと、自分の首にかけることにした。チェーン型の金色が彼の首にかかる。あごの下、胸のあたりで揺れるそのペンダントは、屋上入り口の非常灯の光を反射しながら、沈黙したままでいる。  少年は再度、貯水タンクのうえから下を見下ろした。眼下、マンションから見えるその光景は、ひどく暗く、心細いものだった。それはまるで深淵で――なにもかもを見放すようでいて、なにもかもを受け止めてくれるかのような、残酷性と柔軟性とを同時に内包するものだった。  少年の呼吸は、まるで赤子のように密やかだった。  今、知覚できるのは雨の音ばかり。  風の声も、太陽の視線もない。  さびた梯子の鉄の匂いも、もうなくなった。  少年は静かに立ち上がると、タンクを蹴った。  蹴って、夜の雨空へと飛び出した。  雨粒がすべて、停止したような感覚を受けた。  違う――自分が、雨よりもはやいのだ。  少年の身体は無限にも近い時の中を、無数の水滴に支えられながら静かに落下していく。音はすでにどこにもない。ただ、進んでいる、という認識だけが先行する。  このまま。  このままだ。  このまま、遠くへ。  どこまでも、どこまでも。  少年はなにも考えない。  進む。  ただ、進むだけ。  飛ぶのでも、落ちるのでもなく。  このまま進んでいくだけ。  少年は目を閉じた。  脳裏に浮かんだのはすべての光景だった。  輝かしく、神々しく、素晴らしい日々の数々。  その先にある破滅と絶望。  流動と遜色。  差異。  ――――――――――最後に少年は、ペンダントに写るそれと目が合う。 「       」  少年はゆっくりと笑った。  彼の人生はそれだけだった。
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