さらば、父よ

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さらば、父よ

父よ… たった一度しか歩けない道。 私達が二人だけで歩く、特別な道です。 オルガンと賛美歌を背に受けた、木製の聖なる扉を眼の前に… まさしく今、直立不動。 これから披露する父娘の顛末を知ったら、きっと母は泣きますよ?  その滑稽さに笑い上戸の拍車がかかって… 視界が開けると同時に「一礼!」 頭を揃えて丁寧に下げ、私の掛け声は続く。 「右足から、せーのっ!」 これは本番だ。 正真正銘バージンロードの一歩目だ。 ・・・時を遡ること30分前のリハーサル。 「あ〜もう、俺駄目だな。  右と左とわかんなくなっちゃう」 畏まった燕尾の装いも台無しの嘆きっぷり。 なぜこんな簡単な事もできないのか? 私には不器用な堅物が情けなくも思えた。 礼に始まりゆっくり歩いて礼で終わる。数メートルのこと。 一つ置きにツーステップを踏んでバタバタしていた。フォークダンスではないのですよ? 限られた時間の中ひねり出した、苦肉の策の突破口。 バージンロードを私の号令で共に歩く――――。 「ひーだり! みぃーぎ!」 (新婦、何か叫んでない?) 参列席からのヒソヒソ声。 本日はお日柄もよく、とはいかなかった。 幸せを願ったジューンブライド。 梅雨の最中(さなか)の仏滅。 天は私達に味方してくれなかった。 強まる雨音に負けじと私の声も大きくなる。 挙式会場の硝子張りのチャペルは雨模様で、売りであるはずの光彩が全くない。 それでも父は、この不運も自分のせいだと一手に背負ってしまうのだ。 「俺が雨男なんですわ。すまんねぇ」 そう、何度も挨拶代わりに謝って… 主役である私達に泥がつかぬよう振る舞った。 父と私と双方の心情を見越した介添人が言う。 「お式の日の雨は、  娘を送り出す御父様の涙ですよ」 その言葉に父の顔は困っていたが、目元のシワは緩んだまま… その酷く日に焼けた褐色の肌でも、頬が赤らんでいるのが見て取れた。 その真っ黒な肌は屋根の上の職人として、家族を養い私を育て上げた証し。 灼熱の日照りを浴びて汗を流し、体を酷使しても働き続けた勲章の色。 私は誇りに思う。 父よ… 今日この道を私と歩けば、その肩にかかった負担を軽くする事ができるのですね。 新郎と父が向き合い礼を交える。私はそれを一番近くで見守ると、白いベールの中でひと呼吸した。 父の腕をそっと離して旅立つ時…  ポツリと呟いた父の一言が、聖歌隊の美声と煌めく音色も貫いて私の耳に届いた。 「ありがとな…」 父よ… ここで言うか、それを。 私は小さく頷いて返事をし、愛しい夫の元へ歩んだ。 ――――あのとき、 花嫁だった私は少し傲慢でした。 私は新婦であり、妊婦でもあったから。 父よ… 初孫の誕生にお酒がとても美味しかったでしょう? 私も母親となり子育ての苦労を知ってから、育ててもらった恩返しをするつもりだったのです。 育ててくれてありがとう―――― ちゃんと言葉にしておけばよかった… 残念ながら、私があのとき誇りに思った勲章色は、お腹にいた息子に伝わりませんでした。 ハイハイ、たっち、あんよ… 成長する程に泣きわめかれて側にも寄れず。 ひと目映るだけで、一瞬でむせび泣きを起こさせる。 ジイジよ… 息子はその肌黒さがこの世の生き物とは思えなかったのです。 もっと可愛がりたかったでしょう? 早過ぎでした。 旅立ってしまうのが―――― ある雨の日、父は逝ってしまった。 屋根から滑り落ちたのだ。 雨が、、、雨のせいで。 絶え間ない弔問に「ありがとうございます」と死に対しておかしな礼儀を言い続け… 全てをやりとげた後、私達親子はこじんまりとしていた。 シトシトと雨が降る葬儀場。 ひとつの傘に私達は収まっていた。 私は位牌を片手に持ち、遺骨を抱える母に傘を手向けて。 「呆気ないものね…」 俯く母は最後にポツリと呟く。傘が跳ね返す雨音は、母の小さな泣き声を打ち消していた。 私はぐっと… 涙も弱音も呑み込んだ。 父よ… 私が母を、守っていきます。 息子を連れて実家を訪れお骨に手を合わせる日々。 こんなことをするくらいなら…  生きているうちにもっと親孝行をしておくべきだった。 後悔ばかりが募ってゆく… 四十九日法要を終え仏壇に父の位牌と線香を備えた。 まだこの家に残る父の面影が漂う。 どこかに… いる、かのような。 窓を開けて外を眺めると、濃い灰色の雲が雫を落としていた。 「本当に雨男ね」 雨を疎ましく映した私の瞳に、その庭先でしゃがみ込む子供の頃の私が蘇った。 そのときも、こんな雨の中で餌を置き飼い猫の帰りを待っていたのだ―――― 「もう何日も探してクタクタやろう?  猫は死際を見せんてな。  美也、さらばっ… て旅に出たんよ。  格好いいと思おうや」 父は私の頭をグリグリと撫で押し付けた。 私は丸くなって涙を流し、“ 別れ” を受け入れたのだ。 小さな私が泣き止むまで…  雨の中、父は撫で続けてくれた。 そのとき、私は同時に “ 親の愛情 ” も知ったのだ。 なぜか、無性に外へ… 導かれるように外に飛び出してしまった。 同じ場所に立ち、雨を浴びたかったのだ。 父よ… 胸の奥から這い上がってきた塊を、ここでぶち撒けなければ! 雨空に、封じた私の叫びを打ちつける。 「さらばぁ!!父よ――――っ…」 返ってくる雨粒は私の涙だろうか。 それとも… 私は良い娘でしたか? やり残した事はないですか? 母に言っておきたい事はありませんか? 父よ… そちらは極楽ですか? もうどこか痛くはないですか―――― 「!!」 ふいに影が、雨に打たれる私を覆って、そこに留まる。 傍らに佇む夫は、傘を私にかけてくれていた。 片腕に息子を抱き、そっと優しい視線で私を見つめる。 私を、降り止まない哀しい雨から守ってくれている。 「――――っ…」 大きな胸に情けない顔を擦り寄せれば、小さな手が私の頭をこしょこしょと撫でる。 「マぁ?…いーこ」 この雨宿りは、かけがえのない天からの贈り物だ。 この小さな屋根の下に、私の家族がちゃんとあった。 絆で結ばれた家族の形が存在していた。 父よ… 私は大丈夫です。 あなたが送り出してくれた娘は、誇らしい家族を持て恵まれています。 どうか安心して欲しい。 父よ、ありがとう。 安らかに眠りたまえ――――。
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