4人が本棚に入れています
本棚に追加
「雨やな」
光一郎の声がして、軽く世界がゆがむ。
静かな雨音の中で、七瀬と光一郎は月詠堂の玄関口の前にたっていた。来た時よりもくっきりと街の匂いがする。菊の花の匂いはもうしない。
周囲に漂っていた蟲の気配は消えていて、七瀬の手の中にはあの本が静かに収まっていた。
「ご丁寧に封までされてる」
光一郎が指先でつつきながらあきれたようにつぶやいた。
「……帰るか」
もうこれ以上、何もしたくない。
そこに、ぱしゃぱしゃと、誰かが走る音が近づいてくる。
「あぁ~、ごめんね、約束の時間遅れちゃって」
長い髪をポニーテールに結った女性が門の向こうから、七瀬と光一郎に手を振った。その顔を見て。
「うわっ」
光一郎がのけぞる。
「月詠堂……さん」
七瀬がようやくといった感じにその名を呼ぶ。
月詠堂は不思議そうに首をかしげた。
「あぁ、それはきっとおばあちゃんよ」
どこかで似たようなセリフ聞いたな、と思いつつ七瀬はうなずく。
「とりあえず、雨だし寒いでしょ? お茶入れるからあがりなさいよ」
まぶしい笑顔を浮かべて、現当主だという女性は朗らかに誘う。
「あ、いえ……俺たち、その……」
「次の予定がありまして……」
「そお?」
まあいいよここで待ってて、と月詠堂は軽やかに家の中に入って行き、すぐに大きな袋を抱えて戻ってきた。
「これお土産に持って行ってよ。蟲本屋の馬鹿店主にもひとつくらいあげてもいいけど」
「馬鹿店主……」
「そ。おばあちゃんのお見舞いに行ってたんだけど、お客さんにみかんを渡してあげてくれってしつこいの。あなたたち来るの知ってたみたい」
袋の中にはあふれそうなくらいみかんが詰まっていた。
「僕ら寺でももらったんですよ。この辺名産なんですか?」
「お寺? あぁ。うちのおばあちゃんが手伝いにいくとき良く配ってたな」
「え? あのピンクの花柄エプロンのおばあちゃん……」
「それうちのおばあちゃん。あったことある? 女手いないから良く手伝ってたの。今は入院中だけど」
とりあえず七瀬と光一郎はうまく言えないものをふたりそろってなんとか飲み込んだ。
夜がはじまりだした街の、良く知らない坂道をゆっくりとくだる。色々な体験につかれたせいか、冷えた空気が心地よい。隣を歩く光一郎はミカンをとりだして眺めている。
「着物の月詠堂はさ、孫に蟲本を渡さないために俺らに蟲を回収させたのかな」
「そういうたら、ミカンはじいさんの好物やったって言うとったなぁ。あのおばあちゃんが月詠堂の先代やったのかぁ。お元気になったらまた会いにいくかいな。あと、菊の花ことばって知っとる? 黄色いやつ」
「花言葉? 知らない」
「破れた恋。……じいさんも罪づくりやなぁ」
心を決めて七瀬は口を開く。
「なぁ」
「はーい」
「じいちゃんの墓参りどれくらい行ってるんだよ?」
「んー。だからぁ。なな君と同じ」
「俺を見て話せよ」
光一郎が天を見上げるように首をかたむける。
「月命日」
静かな声がかえってきた。光一郎がどんな表情をしているのか七瀬にはわからない。静寂が広まっていく。その静けさに押しつぶされないよう七瀬は一息ついてゆっくりと問いかける。
「今度、俺も一緒に行く」
「えー? どーしよっかなぁ」
じんわり笑いがにじむ声。
その夜、七瀬は再び祖父との遠い夏の日の夢を見た。
色の思いだせないかき氷を食べながら、6つの七瀬は言う。
「じゃあさ、じいちゃんのその特別な本、おれがいつか見つけてあげるよ」
自分の言葉に祖父がどんな顔をしたのか、七瀬はやはり思い出せないけど隣に座る祖父の気配がとてもあたたかだったことは、ちゃんと覚えている。
最初のコメントを投稿しよう!