蟲本2~菊花火

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 人ごみの向こうからか聞こえる切れ切れの祭囃子。周囲に浮かぶ煌々とした灯篭の輝き。ほんの少し前まではそんな気配に包まれる夜の向こうにはきっと素晴らしいものが待っているとむやみと心が浮きたっていたのに。六つの七瀬は石段の隅で頭をしかめている。前後左右を通り過ぎる人たちはちらりとも七瀬に視線を向けることなく、きらびやかな出店や灯篭の明かりに目を輝かせ、親密な誰かと言葉を交わし合いながら通り過ぎていく。提灯の明かりに照らされた階段の両側には菊を模したような形の人工的な花飾りがつるされ、薄紅や黄色、青い花までがしゃらしゃらと風に揺られている。揺れ動く花飾りの影があるかなしかの淡い影が七瀬の上に影を落とす。 きっとすごいものだ。 祖父が探し続けている本とはいったい何だろう。七瀬は首をひねって考える。 家を出るまで、七瀬にとっての世界の中心はお祭りの賑わいと華やかな笑い声だったのに、母がぽろりとこぼした一言によって自分だけがはじき出されてしまった。 「お父さんが考えてるのはずっとその本のことだけね」  明日の花火に祖父が仕事で行けなくなったと告げたとき、母は唇を子供のようにとがらせて、すねたようにそう言った。母はすぐにくるりと七瀬に向き直って、「今日はおじいちゃんが七瀬になーんでも買ってくれるって」と悪戯っぽくささやいて、祖父と七瀬を送り出した。 「じいちゃん、明日は一緒に来てくれないんだ」  祖父は石段の隅に立ち止まり、かがんで七瀬と目をあわせる。 「じいちゃん、昔の約束を守るために行かなきゃいけないんだ」 「約束?」 「そう。大切な友人とね」 「大切……花火より?」 「そう」 「お祭りより?」 「じいちゃんだって花火と祭りは大好きだ。来年また来ような」  七瀬はもうひとつ尋ねようとした。  尋ねる前に祖父は七瀬の手をつかむ。そうしてやんわりと釘をうつ。 「七瀬と大切な友人を比べることはできないな」  たくさんの人が笑いさざめき七瀬と祖父の脇を通り過ぎていく。灯篭に照らし出されて夜がゆらゆらと揺れている。 「じゃあ……」  七瀬は首をかしげて質問をかえる。 「じいちゃんが探している本はどんな本なの?」  アジサイが風に葉を揺らし、さらさらと鳴る。祖父が哀しそうな笑顔で首をふった。  それから七瀬は考えている。 ぽん、と軽やかに。とてもあたたかな手が七瀬の頭におかれた。ぱっと顔を上げた七瀬の前にはやわらかな笑顔。 「じいちゃん!」 「どうだい。こたえは見つかった?」  七瀬は素直に首を横にふる。 「いっしょうわかるきがしない」 「一生わかる気がしないか」  祖父が必死に笑いを押し殺す。 「だけど、なかなかいい線をいっているな」  祖父はゆっくりと七瀬の髪をなでる。 「じいちゃんも、ずっとそう思ってまだ見つけることができていないんだ」 「は? じいちゃんもわかんないの?」 「わかんないんだ」 「えー。なんだよぉ」 「まぁまぁ。これでも食べよう」  祖父が差し出したのはかき氷だった。そのとろりと美しい氷のかけらの色。 「うわっ、じいちゃん、もうとけ始めてるよ」 「たべろたべろ」  あわてて氷を口に運びながら七瀬はひらめいた。 「わかった! かき氷みたいに特別な本なんでしょ? 色んな本物があるんだけどさ、すぐとけちゃうんだよ」 そんな話をしたときの氷の色も祖父の笑顔も、どれもこれもはっきりとは言い切れない。なぜならやっぱりこれは、七瀬が見る夢だから。 「ななせくん」  心地よい揺れの向こうから自分を呼ぶ声が聞こえる。 「ななせくーん」  耳元でささやかれる柔らかな囁きに引き寄せられるように七瀬はゆっくりと目をあけ、とたんに全力で顔をしかめて叫んだ。 「うっわ、近っっ」  七瀬の目前数センチの距離に、腰をかがめて七瀬をのぞきこむ光一郎。驚く七瀬に向けてにんまりと満足げにほほ笑んだ。 「電車の中でさけぶんじゃありません。しっかしようねてたなぁ。あとふた駅でつくで」  光一郎は七瀬の隣に腰をおろし、七瀬の膝の上に広げたままだった雑誌を手に取りぱらぱらとめくりだす。ガタンコトンという響きが七瀬の意識を刺激して、ようやく自分が車内にいることを思い出す。土曜の朝。乗客はまばらで七瀬の叫び声に反応した女子中学生らしいふたり組がひそひそと話しながら笑っていたが、あとの人たちはこちらに注意を払うこともなかった。  12月だというのに窓から差し込む陽ざしで車内は暑いくらいだった。だから遠い夏の日の夢をみたのだろうかと、七瀬はしっとりと汗でぬれた額を右手の甲ぬぐう。 「俺寝てたんだ」 「もう爆睡。乗って2秒で寝たね。その間の僕の寂しさったら、もう、ないよ? 98分も放置されて。この償いはしていただきますからねっっ」  しくしくと泣きまねを始めた光一郎を無視して、七瀬は車窓から見える景色に目をやる。ゆったりと大きな川が線路と並行して流れており、川沿いの道の桜並木にはまだ紅葉の名残がある。見覚えのある景色だ。両親とは何度かこの道程を通っている。光一郎はどうなのだろうか。ゆるい笑みをうかべる光一郎をぬすみみる。少なくとも、七瀬と一緒になったことはない。  知った駅の名がアナウンスされる。光一郎が席を立つ。七瀬も続く。プシュー、と大げさな音を立てて開いた扉を抜けた光一郎は迷わずあまり人が向かわない北口へと足を向ける。行き慣れてるな、と七瀬は思う。 ふたりは七瀬の祖父の墓参りに向かうところだ。  駅の改札口を抜けたすぐ目の前には広場ともいえない小さなスペースがあり、タクシーが1台とまっていたが運転手の姿はみえない。その向こう側には酒屋の看板をかかげた店があるが、どうやら食堂も兼ねているようで香ばしい匂いが漂ってくる。 「はらへったなぁ」 「あとでな」  七瀬は酒屋の裏につづく道を歩き出す。 「はーい」  光一郎は名残惜しそうに目をやって、すぐに七瀬に並んで歩きだす。まっすぐにのびる道には二人の他に動くものはなにもなかった。寺はさほど歩かずに見えてくる。東弘寺という看板の脇にある階段を数段のあがると、存外広い敷地に佇む本殿が現れる。さて、ここからどうすれば良かったんだっけ、と足をとめた七瀬を置いて、光一郎は慣れた様子で本殿の裏側にかけていく。なにやら華やいだ感じで挨拶しあう声が聞こえ、戻ってくると箒と塵取りをちゃっかり手にしていた。 「お前、結構来てるの?」 「んー? そんなかわらんよ」  七瀬が何度来ているのか知りもしないだろうにしれっとそんなことを言う。七瀬はため息をつく。一緒にいる時間はそれなりになるが、いまだに七瀬は光一郎と大してもめたことがない。もめるというのは積み重ねた信頼の証でもあるのだろうと思う。もしくは相手への期待。積み重ねたものも期待もないから反発しあうこともない。そういう関係というものは七瀬にとってはじめてで、この先の踏み込み方が分からない。分からないからこのままでよいのではないかとおもうこともある。が、祖父だったらどうするのだろう。七瀬にこんな面倒くさい状況だけ残していなくなってしまったその顔を思い浮かべる。そういう時に思い起こされる祖父の顔を決まってなにかを企んでいそうな顔をしていて、騙されたような気分になる。  玉砂利を小気味よくならしていた光一郎の足音が止まる。 「どうした?」 「あれ。知り合い?」
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