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月詠堂。
古びた木製の看板が掲げられた古民家といって差し支えのない平屋の建物。申し訳程度の低い柵が入口にあるが、門は開かれている。門から玄関までは飛び石が置かれていて、その脇にはやはり色とりどりの菊が植えられて風に揺れている。七瀬と光一郎は顔をみあわせ、お互い譲り合うようなそぶりを見せたが、結局七瀬が先頭で中に向かう。入口の引き戸に手をかけて息をつき、意を決したように戸を引くと、思いのほか扉はするりと音もなく開いた。
薄暗い室内に一見したところ人気はない。広い土間があり、沓脱に下駄がきちんとそろえて置かれている。奥に続く廊下には白地に菊文様の暖簾がかけられていてその先の様子はわからない。古書店とは聞いていたが、見える範囲に本棚はない。しかし、古い紙の匂いがした。
「すみません」
七瀬の呼びかけにこたえる気配はない。
「こーんにーちはー」
光一郎が妙に間延びした口調で声を張る。
カタン。奥から音がした。
「はーい」
すぐの朗らかな声がかえってきて、こちらに近づく足音。白い暖簾の向こうから女性が顔をのぞかせる。
「あら?」
おっとりとした声でにこやかにほほ笑んだのは、先ほどの寺で出会った女性だった。
「あぁ、それは妹よ」
七瀬と光一郎の話に不思議そうに首をかしげていたが、途中で納得が言ったというようにほほ笑んだ。
「妹、さん?」
ふたりがそろって首をかしげるのをおかしそうに笑いつつ、月詠堂の主人はうなずいた。
「双子なの。でも驚いた。あの子、こっちに戻ってきてたのね」
さらり、と白い暖簾が揺れた気がして七瀬が目をむける。奥は相変わらずしんとしていて、午後の光はもう届かない。墨が水にとけていくようなあわくぼんやりとした闇が漂っていた。
「七瀬?」
視線を追って光一郎が何か問いたそうに呼びかける。
「いや……」
感じた気配のようなものを七瀬はうまく言葉にできずに口ごもる。
「まぁ、とにかく。あがりなさい」
月詠堂はそんなふたりにやわらかにほほ笑んだ。
いくつもの角を曲がり廊下を歩く。覚えのある紙の匂いの外側に、菊の薫りが漂っている。外から見たよりもずっと広いのだろうか、薄暗い見知らぬ家の中で時間が消し去られていくようなぼんやりとした怖さにつかまりそうで、七瀬はあらがうように深く息をつく。と、ようやく廊下のつきあたりの障子の前で月詠堂は立ち止まり、七瀬たちがついてきていることを確かめてから障子戸を引いた。
部屋は3方に雪見障子が貼られており、思いのほか明るかった。部屋の中央にちゃぶ台が置かれ、月詠堂はふたりにそこに座るよう促し「お茶を用意するわね」と入ってきたのとは異なる障子をあけて出ていった。
七瀬はふうっと息をはき、眉をしかめながら周囲に目をやる。なんだこれはと文句を言いたい気分でもある。蟲本屋の奥の部屋と同じくらいに濃密な蟲の気配が漂い始めていた。気配が濃すぎて出所が分からない。あの店主に本を渡すということは、やはりそんな一筋縄にいく相手ではなさそうだ。
「なな君、なな君」
光一郎が七瀬の右肩をつつく。
「あれやろ?」
そう指さした先に七瀬も目をやると、部屋の片隅置かれた書き物机の上に1冊の本が置かれている。七瀬は置かれたままの本に向き直り、そっと薄紙を開く。
「『舞踏会・秋』」
「芥川龍之介かぁ。やだなぁ。僕嫌いなんよね」
七瀬が眉をしかめる。七瀬たちに本を渡すためにここに出しているのだろうが、ずいぶん無防備に見える。蟲本屋の店主ですらもう少し厳重に封をした状態で持ち運んでいる。
「これってどんな話だっけ」
「んー。僕もうるおぼえやけど。『舞踏会』はセレブな女子がパーティでイケメンフランス人と踊って、花火みて、老人になる話」
「……そっか」
「あ、なんか菊の花はわんさかでてきたな。『秋』はあんま記憶ないな」
「なんか姉妹の話だったのは覚えてる。姉が妹に好きな人を譲って、いろいろあって妹の家に遊びにいったらなんか思ってたのと違う、みたいになって。……やべぇ、説明が難しい」
「こんどちゃんと読書感想文を書くようにっ」
「お前もなっ」
「ところで。なな君、蟲視えんの?」
光一郎はそう言って本をみつめながら目を細めた。七瀬はゆっくりと周囲を見回しながら首をふる。
「いる、とは思う。ただ、俺の場合は誰かに憑いてたりしないと良くは視えないことがある。光一郎こそ……」
たずねようとして七瀬は途中で口をつぐむ。蟲に憑かれたことのあるものだけ、蟲に干渉できるようになる。ただ、その程度は蟲にどれだけ浸食されたかによる。先日の沙紀くらいだとなんの影響もないときく。では、蟲に干渉できるほどの影響を持つようになるにはどれだけの憑かれかたをされたのだ。光一郎がうそぶいて笑うたびに、大切なものが零れ落ちていくように見えるときがある。何があったのか知らずに、そういう力を期待するのは軽々しいのではないか。目を伏せる七瀬に、はぁ、と光一郎が息をつく。
「なんで七瀬が気に病むかなぁ」
「なんでって」
七瀬は言いかえそうとしたけど、できない。
「ま、ええか。僕にもようわからん。気配はするけどえらい弱ってるのか、なんていうか空っぽっていうか」
「空っぽ? あぁ、確かに」
七瀬はうなずく。感じていた違和感の正体は確かにそういったものだった。少し前まで誰かがいた気配のある部屋と言う感じだ。そこでとある考えに行き当たり、ぱっと光一郎と顔を見合わせる。おそらく同じことを光一郎も考えたのだろう。
「抜け出てる?」
本に憑いた蟲は人の心にとりついて、宿主の望む物語を紡いでいく。心を喰いつくされてしまったら命も奪われる。蟲本屋で取り扱う蟲本は多かれ少なかれそうやって人にとりつき、新たな物語を生み出したものばかりだ。
「本がここにあるってことはそう遠くには行けないだろうけど」
あたりの気配と本に残ってる気配は一致してそうだ。
「じゃあ、本だけ持ってさっさとかえろーや。まだ間に合う」
光一郎が面倒くさいことはごめんだと腰を浮かす。
「そういうわけにはいかないだろ」
「なんで? 今回は、なな君が頼まれたのは本の受け取りだけやん? 蟲の回収やない。月詠堂かてあの店主の友人ならそんじょそこらの本屋やないやろ。蟲がついていようがいまいが関係あらへんやん」
そう言い切られては身もふたもない。反論は弱弱しくなる。
「そうだけどさ……。そもそもあの店主がそんな簡単な依頼をしてくるとは思えない」
「……そうやな。簡単に見えたら見えるほどしっっち面倒なことさせるに違いあらへん」
「実感こもってんな」
「正直、1週間は語れる」
光一郎が笑う。七瀬も笑う。
そのとき、
「やめてっ」
月詠堂の悲鳴が障子の向こうから聞こえ、どさりと人が倒れるような音がした。
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