蟲本2~菊花火

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 薄闇の中に七瀬は目を凝らす。 「先がまだ長そうだな……」  独り言に近い七瀬のつぶやきに、月詠堂はふんわりとほほ笑んだ。 「あら、ひとり捕まえたのはとても大きなことよ。ほら、本の中にいる蟲の欠片はとても楽しそう。私もなんだか楽しくて仕方がないのよ。蟲酔いかしら」 「蟲酔い?」 「蟲はね酔わせてくれるの」  月詠堂が七瀬に寄り添うようにとろりとささやいた。 「何か自分の中に変化が起きたのはわかるんだけど、それに伴う感情がちっともついてこないっていうのかな。ふわふわして、どうしようもない。あぁ、喰われたというのは違うのよ。これだけ蟲の気配が濃いとどうしたってね」  月詠堂の声が明るく弾めば弾むほど、廊下の闇が濃くなっていく。 「あーあ。酔うてるうちになくしたものはもう帰ってこんさかいね」 「そうなるとどうなるの?」  無邪気に問い返す月詠堂を透けてみるように一瞥し、小さなため息を光一郎はついた。 「七瀬。……時間がない。本体をあてる」 「本体をあてる?」 「そ。蟲はちりじりになってるようにみえてもこの本に巣くってひとつながりになってるんやろうさかい。中心になってる核のようなものがあるはずや。つまり、この人の言う妹妹っていうのをあぶりだす」 「妹? 私の? たーくさんいるわよぉ」 「100人おったってがんばるぞー」 「いや、無理だろ」 「何人いるか知りたい?」  月詠堂は束ねた髪をなでつけながら、しばらく黙ってからもう一度問いかけた。 「私の家族の、妹の秘密にかかわるんだけど。知りたい?」  ひんやりと静かな声だった。 「……聞いちゃだめなら聞きませんけど」  月詠堂は目を閉じる。再び目を開けると、はじめて七瀬をみたようににこやかにほほ笑んだ。 「ほんとうに、七瀬くんはいい子ね」  七瀬は心の中をよまれたような不意打ちを受けて唇をかむ。ほんとうは、聞いたことによる責任を果たせる自信がなかったから、聞かずにすむ道があるのであればそうしたかっただけだ。そんな七瀬をみつめながら、月詠堂は髪をほどく。さらりと流れる長い髪からほのかに菊の薫りが漂う。 「ちょっとちょっと、月詠堂さん。あんまり、僕のなな君にくっつかんでください」  光一郎はにんまりと笑う。 「いいわねぇ」  月詠堂は光一郎にやわらかにほほ笑み返す。 「だけど愛なんて、とってもきれいで心地の良い朝にすっきり捨て去るのが一番よ。たいていの人は腐らせちゃうから。腐っていく気持ちを丁寧にいつくしみ続けるなんて不毛でしょ。本当に大切な気持ちこそね、大事にしたいじゃない。懐かしいものってきれいでしょ」 「へぇー勉強になるなぁ。あきらめるってことですか。あきらめて懐かしいものにして閉じ込めといたらええってことか。大人の解決策って簡単だなぁ」  薄く笑う光一郎の語尾がとがる。  月詠堂は表情をみじんもかえず、まばたきもせずにじっと光一郎の視線を受け止める。視線がほどけない。 「つまり、妹たちっていうのは、自分の、心?」  緊張を押し殺した七瀬の声に、月詠堂はぱっと華やかな大輪の笑顔を浮かべる。夜空に浮かぶ花火のように鮮やかで、一瞬の。  光一郎が代わりに続ける。 「まぁ、この人に妹がおらんっていうのは最初からしっとったけどな。対象者の情報を得ておくことは重要ですから。3世代に当たってご家族の構成は調べさせていただきましたよ。ここに来る前に」 「おま……。いつの間に……」 「僕、店主のことは微塵も信じてへんので」」  光一郎が胸を張る。七瀬は苦笑する。結局、いつも光一郎に転がされてばかりな気がする。まぁ、そもそも自分の準備不足が露呈したというだけだが。 「あらすごい。お察しのとおり、私がこの本に喰わせてきたのは私自身。この家に漂っているのはいわゆるすべてが私の欠片ね。いらなくなった……、というよりも邪魔になった古い気持ちを捨ててきたの。気持ちの置き場としては最適よ? 一瞬の気持ちを、永遠の中でかすんでいしまうであろうその瞬間の気持ちを閉じ込めて置けるんだから。だから、申し訳ないのだけど、どれだけ回収すればもとに戻れるのかは私自身にもわからないの」 古びた夜に閉じ込められたような廊下が揺らぎはじめる。月詠堂は少し悲しそうな眼を流す。 「やっぱり秘密がばれるとだめね。ここはもうすぐ崩れるわ」 七瀬の中で色んな思いがくるくる回る。自分で自分を蟲に与える。本と共存することを選んで生きるということが、まだ理解できない。そんなまとまらない考えの中で、ギリギリ拾った自分の声を口にする。 「気持ちを捨てたらその扉は2度とあけられないんじゃないんですか?」 愛だとかとんでもなく遠い場所にあると七瀬には感じられるけど、少なくとも気持ちがひかれた物事や人に対して扉をしめてしまいたくない。自分が忘れてしまったら、相手だけがその気持ちの中に取り残されてしまうのではないか。 「七瀬君は本当に優しいわね。相手にだけあずけて自分はもう面倒くさい気持ちから抜け出せるのよ。それって、とても幸せよ」  月詠堂はそう言って七瀬を、いや、七瀬のもっとずっと先をいとおしそうに見る。 「どんなことでも良いんだけど。分かりやすいのはやっぱり恋心かしら。相手を思う自分の気持ちが成就するなんて限らないでしょう? かなわなかった心を捨てられずにそれでも前に進んでいくって、すごく残酷よね。息を吸って吐くたびに、手に入れたかったものから遠ざかっていくのよ。それなら切り落としてしまった方が楽ちん。『妹』もそんな恋心を閉じ込めたものなのだけれど、あの子の思いは強くてしょっちゅう出て来てしまうの。本物の私を差し置いて。生意気ね」  すっと、世界が揺れる。そのさいごの瞬間に、七瀬は彼女の表情に気づく。
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