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気づいたときにはもう彼女の姿は消えていた。その代わり、ぼんやりとあたり一面に漂っていた蟲の気配が一か所に集中している。七瀬たちが立つ廊下に接した部屋の障子の向こう。明りがもれている。あそこで話の続きをしようということか。
「さーて、本体はあては大成功」
「……お前、最初から全部わかってたわけ?」
「まぁまぁ。本を受け取るまでがお仕事やん、七瀬のね。油断せん油断せん。ほんまにあの人が本体かはまだわからんし。最後の仕上げはまかしたっ」
そう言われてしまったら自分で向き合うしかない。七瀬は前方に見える淡い光に暖かさを感じながら、覚悟を決めて顔を上げる。
その部屋に踏み出した。
「お茶お待たせしたわね」
「あったかぁ~」
これまでの時間が失われたかのように、月詠堂は平然とお茶を差し出し、光一郎は嬉しそうに茶碗を手にする。七瀬だけ、ぽっかりと時間を失ったような顔で眉をしかめる。
「あらすごい顔してるわね」
「なな君は僕と違ってまじめなんよ。将来はストレス性胃痛にくるしむタイプ」
「勝手に人の将来決めんなよ」
「そうよ。人の将来なんてわからないものよ。あなたたちが思いもよらないほどの岐路があるの」
月詠堂は湯飲み茶わんを七瀬に差し出してにっこりとほほ笑む。
「さてと、本体はあてられちゃったし本はあなたに預けるから安心してね。ただし、捨てた影たちはきちんと閉じ込めてほしいの」
七瀬はすこしとまどうような視線を光一郎に投げる。光一郎はずずっとお茶をすする
「ひとつだけいいですか?」
「何かしら?」
「本体なんていません」
七瀬の向かいに座る月詠堂が瞬きもせずに七瀬をみつめている。
「どういうこと?」
月詠堂の目は七瀬を見ているようでもっと先に通り過ぎていく。言葉をつむがないと彼女は納得しないとわかっている。
「本体というか……みんな、どの気持ちも本物です」
月詠堂の視線がまっすぐに七瀬の目に差し込んだ。淡い光が生まれる。花びらがゆれるように、かすかな笑みが月詠堂の口元に浮かぶ。
「人生の一瞬一瞬の気持ちを、あなたは本に閉じ込めて来たんじゃないですか?」
七瀬にもすでに思い出せない気持ちがある。
はじめてクリスマスプレゼントにもらった絵本のことが思い出せない。
幼稚園の頃に良く出会った野良猫がどんな鳴き声をしていたのか思い出せない。
転校していった友人と過ごしていた時間のことを思い出せない。
お祭りの夜、祖父が差し出してくれたかき氷のシロップが何だったのか思い出せない。
出来事に付随していた気持ちも一緒に薄れてしまっている。時間は七瀬にあわせて止まってくれることは決してないから、どんどんと積まれて行ってスクロールしても追いきれなくなってしまう。知らない間に忘れていく。消えていく。大したことだったはずなのに、いつのまにか零れ落ちてしまう。できれば覚えていたいけど。
「永遠に本だけを読んで生きていきたかったあなた。好きな人を好きだという気持ちの中だけで生きていきたかったあなた。選んだ道と違う方に立っていたあなた自身を蟲に渡したんじゃないんですか?」
月詠堂の瞳の中に七瀬がうつる。その自分の影をみつめながら、七瀬は自分の言いたいことが言葉とずれていっていないか不安になる。話しているときはいつも、言いたいことは別のどこかにあるような気になってしまう。
『本物の私を差し置いて』と口にしたとき、七瀬は月詠堂の目元にうっすらとにじんだ光を忘れられない。一筋の涙の中に言葉にできなかった心がつまっているようで、それがいかにも不器用で。自分だけを本物として生きることに悲鳴をあげたくてあげられないどうしようもない声が聞こえた気がした。
どこかで時計の秒針の音がした。
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