君を食べたい

3/8

20人が本棚に入れています
本棚に追加
/8ページ
 ローズトレイを持って彼女が部屋を出ていった。それを見送ってから、立ち上がり暖炉のそばに立った。揺らめくオレンジに手をかざす。  背中で扉が開くのが分かり、さらには足音がこちらに向かっている。振り返らずとも、それは彼女のものだと分かった。僕の隣に来ると、手には毛布を持っている。いや、そこまでしなくても、とは正直思ったけれど、差し出された好意を無下にすることもできず、毛布を両手で受け取った。  僕はそんなにも寒そうに見えるのだろうか。  彼女もまた、僕の隣で暖炉の炎に手をかざしている。白い肌、と言うよりも、もはや透き通って見えるほど、彼女の肌は人間離れしたそれだった。  太陽の光と無縁のこの場所では、特別おかしなことではないのかもしれないけれど、それにしても、綺麗だ。  比べるには違いすぎるけれど、自分の手に目を落とす。そこではっとした。忘れていたけれど、僕の体はもう半分ほどしかないのだった。もしかすると、それが原因で寒く見えているのだろうか。  手渡された毛布にくるまる。別段寒い訳ではないけれど、そうしていれば彼女が心配することはないだろう。 「──ここにたどり着くのに、どれくらいかかりましたか?」  その質問の答えがほしいのは、僕の方だ。いったいどれくらいかかったのだろう。 「はっきりとは、分からないです。日が昇り、沈んでいくのを何度見たことか。羅針盤(コンパス)だけを頼りに、ようやく今日、ここにたどり着きました」 「日が昇り、沈んでいく……」  呟くと、彼女は不意に窓の外に目を向けた。つられて僕も、彼女が見つめる先に目を向けるけれど、正直、ここからでは外の様子は全く分からない。  外の世界に、出たことがないのだろうか。喉まで出かかったけれど、ぐっと呑み込んだ。なぜなら、容易に聞いていいものなのだろうかと思ったからだ。 「あの──」  思い切って彼女に提案する。 「よかったら近くを散歩しませんか?」  一瞬目を丸くしたかと思うと、すぐにその目は細められた。  重い扉を開けて外に出ると、そこは間違いなく冬ではなかった。どちらかと言えば、春くらいだろうか。 「外にはあまり出ないんですか?」  僕が聞いた。 「──外に出ることは、少ないかもしれません」 「そうですか。もし、僕に合わせて無理してるなら、言って下さい」  彼女は僕が言い終わるより早く、大きく首を横にふった。 「ものすごく分かりにくいかもしれませんが、私今、とても楽しいです。久しぶりです、こんな感覚」  照れくさそうに言うものだから、それは簡単に僕にも伝染した。彼女の言う久しぶりの感情を、僕は僕にだけ分かる理由でこっそりと回収した。  洋館の外観をまじまじと見る。焼きすぎたビスケットとミルクチョコレートの例えは、意外と見たままかもしれない。お腹こそ鳴らないけれど、不思議と匂いはしてきそうだと思った。  彼女は言葉通り楽しそうにしている。僕にとっては大したことではないそれも、彼女には、大げさに言って非日常に近いのかもしれない。 「……あの」  そう言って彼女が振り返る。 「あなたのことを、伺っても構いませんか?」  そんなに遠慮した言い方をしなくても、どちらかと言えば彼女には聞く権利がある。だから僕は、もちろんだと答えた。すると、「私から……」そう言ってきちんと僕に向き直り、顔を赤らめながら自分の名前はリアだと教えてくれた。さらには僕のくだらない質問に、彼女はではなく、だと答えた。 「あなたの、お名前は?」  聞かれてショウと答えた。口にした瞬間、今まで忘れていたような、聞かれて思い出したかのような感覚に動揺した。逆を言えば、聞かれなければ自分の名前を忘れるところだったのかと、訳が分からなくなる。  リアが不思議そうに僕を見上げている。はっとなり、何でもないと言わんばかりに微笑んで見せる。 「──ショウさんは、その、どうしてここが東の果てだと思われたのですか?」  首から下げている羅針盤(コンパス)を、リアの前に差し出す。 「ここに着いてから、針が全く動かなくなったんです。最初は壊れてしまったと思ったんですけど、壊れたにしてはなんだか妙な感じがして。まぁ、僕が勝手にそう思っただけですけど」  リアがそっと手を伸ばし、羅針盤(コンパス)に触れた。ついでに、僕の指にも触れるから、一瞬体が浮いたような感覚に襲われた。 「綺麗な物ですね。壊れてしまったのは、残念です。私に直せたらよかったのですが……」  心から言っているのがものすごく伝わってくる。ただ、そんな顔を向けられてはと、少し困った。色を纏った興奮が、くすぶっているだけでは嫌だと、自我を持ちそうになるのをどうにか抑え込む。 「……あそこには、他にも誰か住んでいるんですか?」  話題を変え、自ら意識をそちらに持っていく。 「いえ、今は一人暮らしです」 「あんな大きな家に……」  言いながら、「今は」が気になった。過去は、今とは違ったのだとその一言が教えてくれる。そう言えば、ここが東の果てかと聞いた時も、「今は」と答えた。  生きていれば色々ある、いや、生きていなくても同じかもしれない。 「昔は誰かいたんですか?」  僕が聞くと、答えにくそうにするから、慌てて答えなくてもいいと言った。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!

20人が本棚に入れています
本棚に追加