君を食べたい

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 そうして彼女の名前を呼び、優しく抱きしめ、何度も何度も飽きるほどに口付けをしておけばよかったと、ため息混じりにそんなことを思うけれど、決して僕は出来た人間ではない。単純に、本能で思ったことだ。  ようやく東の果てまでたどり着いたというのに、欲望に負け、目の前のカラダ()を見事に無駄にしてしまった。  感情が足りていないと、それだけで不利なことが多いとは聞いていたけれど、さすがにここまでとは思わなかった。だから本能に頼るしかないのも事実だ。本能とは言え僕の意思と言えばそうなのだけれど、どうにも全部がそうとは思えない。  いつの間にか、暖炉にくべた薪が小さくなっている。  毛布の上で眠っている女性が身じろいだ。ゆっくりとまぶたを開け、さらにゆっくりと瞬きをすると、ここがどこなのかを確認するように目だけで見回した。僕と目が合うと、柔らかく微笑んだ。       正直驚いた。女性には、消えそうな僕の姿がまだ見えているらしい。両手をついて上体を起こすと、女性が何か話している。音は聞こえるのに、ぼわんぼわんと耳の中に響くだけで言葉が分からない。  不意に、女性が不思議そうな顔をした。すぐにはっとなり、僕が聞こえていないことに気付いたのか、耳を押さえる仕草をした。苦笑いになりながら、頷いてそうだと答える。すると女性は、すっと息を吸い込むなり、ゆっくりと目を細めた。微笑んでいると言うには何か、どこか、違和感を感じた。  出ない声を振り絞ったところで今さらだけれど、自然と喉の奥に力がこもる。  僕が大きく息を吸い込んだ次の瞬間、女性の口元が大きく緩み、不敵に笑ったように見えた。とうとう視覚までおかしくなってしまったのかと、自分を疑った。  最初から、こうなることが分かっていたのだろうか。女性は、動じることなく僕を見上げている。その、あまりにも堂々としている姿を、不覚にも美しいと思ってしまった。こんな時までも、女性という生き物に心を動かされるあたり、僕は本当にどうしようもない奴だ。  溺れないギリギリのところでやり過ごしていると、反対に女の(がわ)が僕に溺れていく。そう仕向けているのは自分だけれど、これまで出会ってきた女たちだって分かっていたはずだ。  ただ、ほんの少しだけ度が過ぎてしまったらしい。だから、天罰がくだった。更には性欲(よく)に負けてしまい、またとない機会を逃してしまった。フォーチュンテラーのお告げを、完全に忘れていたのだ。  女性が首を傾げた。そこで初めて女性を疑った。 つい先ほど、不敵に笑ったように見えたのはたぶん嘘ではない。今度は、なかなか消えない僕をあざ笑っているように見える。  今思えば、あの門をくぐった時から僕はこうなる運命だったのかもしれない。なぜなら、門をくぐってすぐに感じた、生温かくて、柔らかくて、湿り気を帯びたは、きっとこの女性だ。もちろん正解も分からなければ根拠もないけれど、そう思わずにはいられなかった。  この女性は自分自身をにし、そのエサに食いついた僕みたいな奴が現れると、体ごと包み込み、敵意など微塵もないと安心させる。人間の欲を、それも厭らしい方の欲をうまく刺激し、思うがままに操っていたのかもしれない。  まるで、食虫植物だ。  体がどんどん消えていく中で、女性の首元の味を思い出していた。その味は、恍惚という言葉がぴったりだった。たった一口だけでそうなのだから、あのまま食べ進めていたら、などと遅すぎる後悔に苦笑いすらも出ない。  僕は一体、どこで何を、どう間違えてきたのだろう。誰かに語れるほどの濃い人生だったわけではないけれど、いざ終わりを目の前にすると、やり直したいことのひとつやふたつはある。一番近いもので言うならば、さっさとこの女性のカラダを頂き、自分の体を守れば良かった。  もちろんそこに嘘はないけれど、ここに来る前とは、考えが少しばかり変化していた。もしも早々にカラダを頂いて国に帰っていたとしたら、今までと何も変わらない毎日の中へ戻っていくだけだっただろう。  欲望のままに生きることに何の疑問も持たなかった、いや、そもそも他の生き方があることを知らなかったと言った方が正しいのかもしれない。僕は、こんなことにならなければ何も気付かなかったのかと思うと、皮肉でしかない。  自分の手のひらに目を落とす。瞬間、はっとなった。手のひらを見ているつもりが、そこには床があった。足元に視線を移すけれど、そこにどうやって立っているのかもはや説明できない。  女性に目を戻すと、相変わらずに僕を見上げている。次の瞬間、頭の奥でプチッという小さな破裂音がしたかと思うと、完全に音が消えた。  そこからは、あっという間だった。
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