君を食べたい

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 食べたい、食べたい、君を食べたい……  この世界には、東の果てという場所があるらしい。もしも辿り着けたなら、君を丸ごと頂くつもりだ。  僕の体は、もう半分ほどしか見えていない。改めてそれを知らされたのは、つい先日のことだ。  紫の光を纏ったフォーチュンテラーが、しわ深い手のひらを僕にかざしながら、今すぐ東に向かえと、心に直接投げかけてきた。まさかと思いたい気持ちでいたけれど、が来たのだと、覚悟を決めたのが昨晩のことだ。  首から下げた羅針盤(コンパス)を頼りに、ただひたすらに東に向かう。  地平線に沿ってあるのは、海ではなく森だ。数百年ほど前まで、その森にも名前があったらしい。  遠くに見えているのに、辿り着けない日々が続いた。  日が昇り、日が沈む。同じ景色、同じ匂い。  国を出発してから、いったい何度夜明けを迎えたのだろう。不思議に思うほどでもないのかもしれないけれど、昨日と変わらない日々に苛立ちを感じることはなかった。今はただ、体がを欲してどうしようもなかった。  空が白み始め、薄暗さに目が慣れてきた頃、目視できる一番遠くに何かの建造物が確認できた。目の前の光景が突然変わり、逸る気持ちを抑えられなかった。近付くと、人間三人分ほどの高さの門が現れた。足を止め、門を見上げる。いったい何の素材で造られているのだろうか。黒光りしているそれは、石にも、鉄にも見える。不気味な雰囲気を醸し出しているのに、ものすごく好奇心をそそられる。  門の前で羅針盤(コンパス)を開いた。針が、真っ直ぐに門の奥を指している。  僕は、迷うことなく門をくぐった。刹那、体が生温かい何かに包まれた。柔らかくて、湿り気を帯びたそれは、僕から全く離れようとしない。だからと言って、嫌な感じも、敵意も感じなかった。さらに言えば、それは僕の意思ではどうすることもできなかった。  不思議なことは続く。  ひたすらに羅針盤(コンパス)の指す方に突き進んでいると、小さな猫が僕の横を並行するように着いてきていた。コロンと丸まった短いシッポが愛くるしくて、思わず笑顔になる。不意に、いったいいつぶりに笑ったのだろうと思った。  もしかすると、ここへ来るまでの間に感情が少しずつこぼれ落ちていたのかもしれない。だとすれば、体がと思ったのも納得がいく。  何日も何日も、変わらない今日を繰り返し生きている中で、苛立ちすら感じなくなっていたのがその証拠だろう。  どうやらこの猫のおかげで、感情をひとつ回収できたらしい。それに、ひとりより、ひとりと一匹の方が心強い。  相変わらずの生温かさに、夜はきちんと目を閉じて眠れるようになった。日中も、僕に寄り添ってくれる仲間のおかげで、どうにか人間らしさを失わずにすんでいる。とは言え、森の中に入ったはいいものの、結局はここでも、同じ景色、同じ匂いの繰り返しだった。ようやく変化を見つけたと思ったけれど、森に入る前と違うことと言えば、ひたすらに薄暗いことくらいだ。鬱蒼としたその中で、唯一輝いている猫の瞳を頼りに前に進む。  不意に、この猫はなのか、それともなのか、どちらなのだろうと思った。知らない相手を分析する癖がついたのは、たぶん体が消え初めた頃からだ。  猫の横顔を見つめていると、僕の視線に気付いてこちらを見上げた。その瞬間、だと思った。なぜなら、その瞳がとても艶やかに見えたからだ。  すると突然、彼女が速度を上げた。着いてこいと言わんばかりに僕を振り返り見上げる。言葉は分からないけれど、「こっち」だと言っているような気がした。  どれくらい進んだのだろう。途中、羅針盤(コンパス)を見ることも忘れ、文字通り必死だった。何しろ、彼女の速度が全く衰えなかったからだ。  息が切れる、どころの話ではない。ほとんど酸欠状態と言ってもいいだろう。体が半分しかない僕には、これ以上彼女の速さに付いていくことは無理だった。どんどん小さくなる彼女の後ろ姿を見つめながら、引き止めたいのに、声すらも出せなかった。  また、ひとりになった。気持ちが自然と振り出しに戻る。  そもそもひとりだったところに、突然仲間が現れ、突然いなくなった。失っていた感情が、またひとつ、ふたつと回収される。両極端なそれらは、僕の心を大きく揺さぶり、苦しめた。それでも僕は、消えそうな体を前に進める。僕には、目指す場所がある。僕はまだ、踏ん張れる。  再びひとりになり、羅針盤(コンパス)を見る回数が増えた。手持ち無沙汰なことと、昨日と今日が同じすぎて落ち着かないのも理由だ。それに、自国からこんな離れた場所まで来たのは初めてで、不安を覚え始めていた。  鼻先に、冷たいものが当たった。森に遮られていてほとんど見えない空を見上げると、見る見るうちに雨音が強まっていく。僕のところに届く頃には霧雨のようなそれだけれど、その音は、しっかり雨だと分かる。  葉や木々に当たる雨粒が何重奏にも重なり、低音から高音まで幅広い。僕は、その中でもラの音が一番好きだ。とにかく耳に心地いい。そんな些細なことだけれど、ほんの少し、明るい気持ちになれた。
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