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「ありがとうございましたー」
店員の声を背に丈瑠は駅前の文房具屋の自動ドアをくぐった。手には新品のシャーペンを握っていた。さっき、弟のシャーペンを勝手に使って壊してしまったのだ。買ったのは、もちろんお詫びの印である。
外に出ると、雲がどんよりと重かった。今すぐにでも雨が降り出しそうだ。家を出る前に洗濯物を取り込んできて良かった、と丈瑠は思った。
しかし、丈瑠の手荷物はスマートフォンと財布と今買ったシャーペンだけである。洗濯物には気を回せるくせに、丈瑠は傘を忘れてしまったのだ。弟があまりに激しく怒ったから動揺してしまったらしい。
雨が降る前に帰れるかな。不幸にもこの辺りにはバス停もないし、タクシーに乗れるだけのお金もない。仕方ない、走って帰るか。
丈瑠がそう思ったとき、急に目の前に一台の車が止まった。普通の乗用車である。
文房具屋に入るのかとも思ったが、どうやらそうではなくて、運転席の窓だけが開いた。
「丈瑠くん?」
丈瑠は運転手から声をかけられた。よく見ると、そこにいたのは丈瑠の家の近くに住む琉美だった。彼女は丈瑠の幼なじみみたいな人で、昔から仲良くしてもらっている。彼女の妹と丈瑠の弟も高校のクラスが一緒だから、今でもときどき顔を合わせる。
今日の彼女は緩めのTシャツを着ていて、ラフな感じだった。
丈瑠も琉美ちゃん、と手を挙げて反応した。
琉美は一瞬で丈瑠の全身を眺めた。
「もし良かったら、乗ってく?」
「え?」
「帰るところでしょ。家が近いんだから、送っていくわ」
琉美はこういうところでかっこいい人だ。
傘を持たない丈瑠は琉美の言葉に甘えて、車の助手席に乗り込んだ。助手席には駅前のスーパーのレジ袋があったから、丈瑠はそれを膝に乗せた。
「行くわよ」
琉美はガシャッとエンジンをかけて、ハンドルを握った。
「ありがとう、琉美ちゃん」
もちろん、丈瑠は礼を言った。
「いいの、いいの。ちょうど通り道だったし。それより、丈瑠くん、どうして文房具屋さんに? 大学の帰りというわけじゃなさそうだけど」
確かに大学の帰りにしては荷物が少なすぎた。
「弟の新しいシャーペンを買いに行ってたんだ」
「へえ、優しいお兄さんね」
「違うよ。ちょっと喧嘩というか、怒らせちゃってね。リビングに忘れていった弟のシャーペンを勝手に使って、壊しちゃったんだ」
声のトーンはだんだんと落ち、丈瑠は手許の新品のシャーペンを指で撫でた。
「え?」
琉美は驚きのあまり、一瞬正面から目を逸らしてしまった。
「あなたも?」
「どういうこと?」
「……わたしも実は妹と喧嘩っていうか、怒らせちゃって」
琉美はトーンダウンした。
珍しい、と一方の丈瑠は思った。丈瑠も妹の莉奈に会ったことがあるが、琉美とは仲が良い印象だったからだ。
ところで、原因は何だろう。丈瑠は車の中を見渡した。車内は綺麗に保たれていて、ゴミも落ちていない。
そうだ、そういえば。丈瑠は乗車するときに膝の上に置いたレジ袋の中を覗いた。そこには割引シールの貼られたシュークリームが二つ入っていた。
「ねえ、琉美ちゃん。もしかして、これが原因?」
丈瑠はレジ袋の中を示した。
「うん。莉奈が楽しみにしてたシュークリームを勝手に食べちゃったの」
「そりゃあ、怒るね。食の恨みは怖いから」
「本当よ。痛いほど実感したわ」
琉美はハンドルを切った。大通りを外れ、少し細い道に入った。
「もうちょっと考えられれば良かった」
琉美はぼそっと言った。
「どういうこと?」
「わたしね、莉奈が自分へのご褒美に買ったものだって知ってたの。食べないでねって言ってたのも聞いてたし。それなのに、ついうっかり忘れて封を開けちゃったの。もしこれが丈瑠くんみたいな友達相手だったら、絶対そんなことしないで、覚えてるはずだもの」
僕も同じ気持ちを知っている、と丈瑠は思った。
あのシャーペンは弟の哲哉が中学生のころから使い続けているものということも、ペンの先が割れていて壊れそうだったことも知っていた。それなのに、近くにあったからと勝手に使ってしまったのだ。もし、そのシャーペンが友達のものだとしたら、壊れてしまうかもしれないという考えが頭をよぎって、そっと部屋に置いておくだろう。もしかしたら、手すら触れないかもしれない。それなのに、相手が弟だと、つい油断する。
「あーあ、莉奈、めちゃくちゃ怒ってたなあ」
琉美はハンドルを操作しながら、誰に言うわけでもなく呟いた。丈瑠も同じ気持ちになって、手許のシャーペンを指でなぞった。
そのときだった。突然、ざあっと音がし始めた。丈瑠は思わず顔を上げた。フロントガラスにボンボンと弾くような雨音が鳴り、車のワイパーはキュッキュッと音を出し、急に激しく左右に振れ出した。
「これは大雨ね。莉奈、帰れてるかしら。傘持って行かなかったみたいだし」
琉美は心配そうにフロントガラスの上を覗いた。先ほど怒鳴られたばかりだというのに心配するなんて、何て良い姉なんだと丈瑠は感心した。
「そういえば哲哉も家を飛び出していったとき、傘持っていなかったような……」
「それは大変! 連絡してあげなさい。哲哉くんも乗せるわよ」
琉美は運転中で手が離せない。丈瑠はズボンのポケットからスマートフォンを取り出し、哲哉とのチャット画面にした。
『迎えに行くから待ってろ。莉奈ちゃんのお姉さんの車に乗せてもらってる』
そう打ち込むとすぐに返信が返ってきた。
『本当? ありがとう。家の近くの公園にいる。莉奈ちゃんも一緒だから助かる』
丈瑠は意外な情報に驚いて目を丸くした。
「ねえ、琉美ちゃん」
「どうしたの?」
「莉奈ちゃんも一緒にいるみたい。場所はあのあずまやの公園」
あずまやの公園とは、丈瑠や琉美の家の近くにある公園のことである。
「え?」
琉美は驚いて急ブレーキをかけた。丈瑠は不安になってふと正面を見たが、そこはちょうど赤信号だった。
「何で一緒にいるのよ」
「知らないよ。偶然会ったんじゃない? 家が近いし」
「そう……」
信号が青に変わった。琉美はアクセルを踏み、車はゆっくりと速度を上げた。
「ねえ、丈瑠くん。わたし、莉奈を車に乗せたらちゃんと謝ろうと思う」
琉美が突然宣言した。
「気を緩めすぎないっていう自分への覚悟も込めて。丈瑠くんと会ってそう思った」
「僕は何もしてないよ」
「話すだけで良かったのよ。あなたが傘を忘れてくれて良かったわ」
「そんなこと言うなよ。君が来なかったら、僕にとっては一大事になるところだったんだぞ」
丈瑠がむくれた。そして、一拍おいて丈瑠は僕も、と言った。
「哲哉に謝る」
「え?」
「君と同じだから。反省するために」
「それがいいわね」
そう言って琉美はハンドルを右に切った。車は住宅街に入り、見慣れた公園が見えてきた。まだ人影は見えないが、きっと哲哉たちはあそこにいる。
車内には覚悟を決めたキリリとした雰囲気が流れていた。
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