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「もうお姉ちゃんなんて知らない!」  莉奈(りな)がそう叫んで家を飛び出したのは五分前のことだった。  どんよりとした曇り空の下、莉奈は住宅街を速足で歩いていく。からっと晴れていたら、気持ちも整理できたのかもしれないが、どうも振り切れない。  莉奈はさっき姉と喧嘩をしたのだ。とは言っても、原因はしょうもないことである。  莉奈はぷりぷりしたまま、小さな公園に入っていった。住宅街の真ん中にある遊具が豊富な公園である。 ふっと空を見上げてみると、雲がどんよりと重く、暗かった。雨も降り出しそうだ。莉奈は座れるところを探して、公園の真ん中に設置されたあずまやに向かった。 そこで一人、頭を冷やそうと思ったのだが、近づいてみると先客がいたことに気付いた。 「哲哉(てつや)くん?」  屋根の下でベンチに座った男の子が莉奈の呼びかけに振り返った。 「莉奈ちゃん?」  莉奈にとっては見慣れたブレザーの制服を着た哲哉は目を丸くしてそう言った。 彼はさっと横に動いてスペースを空けてくれたので、莉奈はその隣に腰を下ろした。  哲哉は莉奈の学校の友達である。クラスメイトで家が近いこともあり、莉奈とは学校以外でもよく会うのだ。しかし、彼は学校帰りというわけではなさそうである。制服は着ていたけれど、鞄は持っていなかったのだ。 「どうしてこんなところにいるの?」  莉奈は思わず哲哉に尋ねた。 「家が近くなんだから来ることもあるだろ」  彼は何ともはっきりしない返しをしてきた。もちろん、莉奈はそれに納得がいかない。 「ごまかさないで。余計気になるじゃない」 「気にするなよ」 「いいから教えてよ」 「どうしてこうも根掘り葉掘り聞くかな……」  哲哉は諦めたようにため息をついた。 「兄貴と喧嘩したんだよ」  哲哉は口をすぼめてそう言った。  彼には大学生の兄がいる。頭が良くて優しく、哲哉ともとても仲良しだ。莉奈も数回会ったことがあったが、喧嘩という話は聞いたことがなかった。 「……そっか」  本当はもっと深掘りしたいところだったが、莉奈は後ろめたい気持ちになって、そう返すにとどめた。自分も姉と喧嘩して頭を冷やしにきたところである。 「それだけ?」  莉奈の予想外な態度にさっきまで追及をかわしていた哲哉も思わずそう訊いてしまった。 「いつもの莉奈なら、何が原因なのってしつこく言ってくるのに」 「訊きたくないときもあるのよ」 「ありえない。もしかして何かあったの?」  哲哉は切り込んで聞いてくる。彼は思った以上に鋭かった。しかし、莉奈はかわそうと試みた。 「何でもいいでしょ」 「何でもいい、っていうのは何かある証拠だよ」  哲哉は追撃の手を緩めなかった。もう逃げきれないと思って、今度は莉奈がため息をついた。 「お姉ちゃんと喧嘩したの」  莉奈も哲哉と同じように口をすぼめた。 「え? 君も?」 「それはこっちの台詞よ。どうして同じタイミングで喧嘩するのよ」 「知らないよ。喧嘩の種があったんだから」 「そんなのこっちだってそうよ。真似しないでくれる?」 「そう言うんだったら、そっちが真似じゃないか。っていうか、兄弟喧嘩の真似なんか誰が好んでするものか」  そうやって二人はぷいとお互いにそっぽを向いた。  暗い雲はまた灰色が濃くなって、さらに低く垂れ込んでいる。湿気も出てきて空気がじめじめし出した。いつ雨が降ってもおかしくない様子である。  莉奈はふと、哲哉の手許に視線を移した。彼の手には黒い三つ折り財布と、まだ封が切られていない新品のシャーペンが握られていた。シャーペンには赤い淵の小さな値段のシールが貼りっぱなしである。 「ねえ、哲哉くん」  莉奈はまだむすっとしている哲哉に声をかけた。 「何さ」 「もしかして、それが喧嘩の原因?」  莉奈は指で哲哉の手許を示した。すると、彼も彼女の指の先を辿って自分の手先を見下ろした。 「……うん。兄貴が僕のシャーペンを勝手に使って壊したんだ」  哲哉はうつむき加減でぼそぼそと言った。 「そんなことで?」 「ずっと使ってたシャーペンだったんだよ」 「思い入れがあるものだったの?」 「別にそういうわけじゃない。普通に文房具屋さんで買ったやつ」 「ふうん。しょうもないわね」 「そう言わないでよ。実際喧嘩になってるだから」  すると、哲哉はところでさ、と話を変えた。 「君の喧嘩の原因は何だったの?」 「何よ。別に何でもいいじゃない」  まさか自分の番になると思っていなかった莉奈は慌ててごまかした。 「僕だけ言って自分は隠すなんてずるいぞ」  ところが、哲哉にはかわすなんていう手法は通じないみたいだ。 「……シュークリームを食べられたのよ」  莉奈はむくれてさっきの哲哉と同じようにぼそぼそと答えた。 「そんなことで?」 「楽しみにしてたシュークリームだったの! 今日の小テストが終わったらご褒美で食べようと思ってたのに」 「別にシュークリームじゃなくてもいいじゃないか」 「生クリームが食べたかったの」 「ふうん。くだらないこだわりだね」 「そんなこと言わないでよ。お姉ちゃんにひどい態度取っちゃったのは事実なんだから」  じめじめとした空気があずまやのベンチに座る二人の肌を撫でた。雲はやはりどんよりと重い。 「今考えればね、別にあんなに怒る必要なかったと思うの。あれはスーパーで買った割引品で、今から行けば売ってるはずだし。わたしだってお小遣いもらってるんだから、買い直せばいいのよ。そんなこと分かってるんだけどね」 「僕ね、シャーペン買いに行ってたときに考えたことがあってね」  哲哉は莉奈の言葉に答えず、話し出した。 「何を?」 「兄弟について」  オヤジギャグみたいだが、哲哉は哲学みたいなことを言った。 「どうしてか、兄貴に対しては遠慮がなくなっちゃうんだよね。平気でキレるし、ひどいこと言えちゃう。友達なら絶対できないよね、そんなこと」 「うん、確かに。それやったら絶交ね」 「それだけのことを、兄貴には何の躊躇いもなくできちゃうんだよね。不思議なことに」  ひどいことを言っているはずなのに、哲哉はふっと笑った。  そして、莉奈にもその気持ちがよく分かった。これまで幾度も喧嘩をしてきたけれど、そのせいで姉との関係が悪化してずるずる引きずることは一度もなかった。友達相手だったら絶対に絶交ものだと思うほどの大喧嘩でも、姉とのことだったら、いつの間にかなかったことみたいになって日常に戻っているのだ。 「ああ、兄貴、今何やってるかな」  哲哉が目線を手許に落とし、買ったばかりのシャーペンを指でなぞった。兄に壊されたから買ったシャーペンを、愛おしそうに親指の腹で撫でている。莉奈も同じ気持ちでその様子を見つめた。  そのときだった。突然、ざあっと音がし始めた。二人は思わず顔を上げた。  雨が降り始めたのだ。公園の土の地面やあずまやの屋根に雨粒が落ち、あっという間に本降りになった。あずまやの屋根からも滝のように雨水が落ちてくる。 「どうしよう。傘持ってきてないのに。哲哉くん、持ってる?」  慌てた様子で莉奈が言った。しかし、哲哉は首を横に振った。 「勢いで家を出てきちゃったから。困ったな」  すると、哲哉はスマートフォンを制服の尻ポケットから取り出した。勢いで家を出てしまった割には、しっかり連絡ツールは持っていたみたいだ。  哲哉はその画面を操作して天気予報の画面を見ると、小さくため息をついた。 「しばらくは止まなそう」 「そんな。本当にどうしよう」  二人が万事休すの状態になったその瞬間、哲哉のスマートフォンが鳴った。 「兄貴だ」  どうやら、兄から連絡がきたらしい。哲哉は慌てて兄とのチャットの画面にした。 「『迎えに行くから待ってろ』だって」 「優しいお兄さんね」 「ううん、君のお姉さんも一緒みたいだよ」 「え!」  急な展開に莉奈は思わず哲哉のスマートフォンの画面を覗いた。優しい哲哉がついた嘘かとも一瞬思ったが、そんなことはなくて、画面には『莉奈ちゃんのお姉さんの車に乗せてもらってる』と書いてあった。 「お姉ちゃんも来てくれるんだ……」  莉奈は何だかほっとした。さっきまであんなに怒りの気持ちがあったのに、今だって完全に収まったわけではないけれど、それよりも安心の気持ちが勝った。  哲哉はさっと返信すると、スマートフォンを尻ポケットにしまい、公園の遠くの方を見つめた。 「僕さ、兄貴が来たらちゃんと謝ろうと思う」  突然の宣言だった。 「遠慮がついついなくなっちゃう相手だからこそ、しっかりごめんなさいって言いたい。君と話してみて、そう思った」 「わたしは何も言っていないわ」 「話すだけで良かったんだってば。ああ、でも、雨が降って気温が下がって頭が冷えただけかな」 「それだったら、わたしは要らなかったわね」  莉奈が笑った。そして、一拍おいてわたしも、と言った。 「お姉ちゃんに謝ろうかな」 「え?」 「哲哉くんだけちゃんと決着つけるなんて悔しいから」 「うん、そうした方がいい」 「何よ、偉そうに!」  雨はしとしとと降り続き、空気もじめじめしていた。しかし、莉奈も哲哉もすっきりした表情で、お迎えを待っていた。
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