第2章  恋人時代 ①

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第2章  恋人時代 ①

川上課長の、過大評価を苦笑いでなんとかかわし、情報収集出来たライバル社の企画を自宅へ持ち帰ってじっくり検討整理したいからとか何とか言い訳をしながら、朱音は、終業時刻と同時にそそくさと会社を後にした。 ぐったりとしたような重い疲労感を抱きながら、朱音はとあるマンションのエレベーターの前に立ち、ボタンを押して溜息をつく。 やがてマンションの十階の一番奥の角部屋の前に立つ。 ″ 時流 ″ と書いてリュージュと読む、木彫りのお洒落なプレートを掛けてあるそこは、BARだった。 このマンション自体が商業マンションになっていて、何フロアーかの一般住居区域を除いて殆どが事務所や、カルチャー教室や、こういった呑屋の店舗になっていた。 リュージュは、朱音が社会人になりたての頃、先輩添乗員に教えてもらった店で、もうかれこれ三年の付き合いになる。ここのマスターとは妙に波長が合い、それが長く通い続けている理由だった。 「マスター、こんばんは……」 重厚感のあるドアを開けて、朱音がそう声を掛けると、奥まった斜め一文字のカウンターの中から、長身の四十代の男がニッコリ笑った。 「 よう!朱音ちゃん、いらっしゃい 」 十二席あるカウンターは、両端にカップルがひと組ずつ陣取っているだけで、他に客は無かった。 ここの客層は殆どが常連で、今日のような平日はまず座れないということはない。 今居る二組のカップルも、顔なじみで朱音の姿を見ると笑顔で会釈してくれる。 ほぼ中央の席に座ると、朱音はおでこの前で手を組んで大きく息を吐きだした。 自分にとって肩の力を抜ける数少ない場所にたどり着いて、一気に力が抜けた。 「 ずいぶんと、お疲れやなぁ?仕事で大ポカでもしたんか?」 大阪出身のマスターの関西弁が、とても心地良かった。 若い頃からの白髪頭だったという彼の頭は珍しいくらい綺麗な銀髪で、後姿だけならもっと年配に見えるが、そのなかなかの男前な顔はとても若々しい。 「 うーん、今日は大打撃を受けたって感じ!しばらく立ち直れないかも……」 朱音は大袈裟に頭を振ってみせ、カウンターに突っ伏した。 「 そりゃ、大事件やな。天下の朱音姫が立ち直れないほどの大打撃ってなんや?」 マスターも朱音に付き合って、大袈裟に腕組をして眉間にしわを寄せる。 「 あぁ!まさか、例の大手企業との契約取り損なったんか?あんなに準備してたのにか?そりゃぁ、立ち直るのに百年かかるわ!」 相変わらずの関西人特有のノリに、朱音は吹き出した。 「 ううん、まだ正式には決まってないけど……ここからは、オフレコね 」 朱音は、そう言って一旦言葉を切り、マスターに困ったように微笑んだ。 「 今となっては、もう契約なんていらない!って感じなの。ううん、そうなって欲しい。いっそのこと他社に決まってくれたらどんなにか楽になれるか… 」 マスターは、朱音がいつも頼むジントニックにレモンを絞って、そっとグラスを置いてくれた。 朱音の声の感じを読み取って、それ以上執拗には聞かない。 話したい人には、とことん話させるというのが彼の間合だった。 「 だって!だって!だって!有り得ないでしょう!?向こうの担当者が……昔の……元彼だなんて!それもこっちから一方的にこっぴどく振った相手だなんて!」 今にも泣きだしそうな顔で一気にそうぶちまけた朱音に、マスターは天を仰いだ。 田島(たじま) (ゆう)と朱音は、五年前同じ大学のテニスサークルで出会った。 一つ年上の優は、入学当時からのメンバーで、副部長を勤めていた。 朱音は二回生になってから友達に誘われ、単純にテニス観戦が大好きだという理由だけで入った。 「 ようこそ!ロジャーズクラブへ!」 朱音が初めてサークルに参加した時に、副部長の優が陽気に笑顔で迎えてくれた。 「 ロジャーズって、あのテニスの帝王フェデラーのことですか?」 朱音はあからさまなサークル名に思わず笑った。 「 一応、メンバー皆んなはフェデラーをリスペクトしてるからね!神田さんもフェデラー派?それともジョコビッチ派かな?」 「 もしジョコビッチ派なら、入会断られますか?」 朱音はちょっと意地悪に聞いてみた。 優はただニコニコ笑った。 「 神田さんがジョコビッチ派だというなら、うちのサークル名は明日からジョコビッチクラブに変えるよ!サークル名よりも神田さんが入会してくれる事の方が最重要案件だからねー」 その短絡的な意見に思わずクスクス笑った朱音に、優は満面の笑で親指を立てた。 中高一貫男子校出身の優は、そのなかなかのイケメン顔に反して恋愛経験が無かった。 大学に入って、サークルに入ってからは、そこそこモテたが、本人が奥手だったが故に特定の彼女も作らず、周囲からはテニスの王子様ともてはやされていた。 その優が恋をした。 一目惚れというものが本当にあるとしたら、まさにそれだった。 一目惚れに定義も理由も無いから、朱音のどこに惹かれて何が良かったのかもおそらく自覚していなかったが、彼女が目の前に現れた瞬間に恋に落ちた。 朱音がサークルに入会した一週間後には、優は朱音に猛烈にアタックを開始した。 中学の時にソフトテニス部だったという朱音の練習相手を専属コーチの様に買ってでては、朱音と共有する時間を増やした。 朱音の方も、サークル1番のイケメンにあれやこれやと世話をやかれ、女子の羨望の的になることに悪い気はしなかった。 何よりも、優はその名の通り、とにかく優しかった。 それは朱音だけに限ることなく、誰に対しても親切で、丁寧で、優しさに溢れる対応の出来る人だった。 「 神田さん、僕とお付き合いしてくれませんか?」 朱音がサークルに入部して1ヶ月後に優から告白を受けた。 「 まだひと月足らずでなぜ?と思うかもしれないけれど、正直に白状するよ。僕の一目惚れなんだ。」 少し照れながら、でも真っ直ぐひた向きな眼差しでそう言われた。 「 ……ありがとう、素直に嬉しい。でも…… 」 朱音は躊躇した。 彼氏としての優は、申し分無いのだとは思う。 爽やかでイケメンで背も高く、おまけに優しさの塊だ。 「 断らないで欲しい。もし、今は僕の片想いだとしても、付き合って僕を知って欲しいんだ。ダメかな?」 男性からの告白を受けたことが無いわけではなかった。 連絡先の交換の申し込みや、付き合って欲しいと言われたこともあった。 でも、出会った時から、優には何か違うものを感じていたのも事実で…… 優の実直で熱い想いに押しきられ、朱音は彼の告白を受け入れた。
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