151人が本棚に入れています
本棚に追加
第3章 恋人時代 ②
そこからの彼の朱音の扱い方が凄かった。
彼氏としてなら、おそらく百点満点だった。
何をするにも、どこへ行くにも、まずは朱音の希望が最優先だったし、二人の付き合いはあくまでも朱音中心だった。
はじめのうちは、優の渾身的な態度に完全に、朱音も舞い上がった。
第一、そこまで男性に尽くされたことなど無かったし、そこまで一途に愛された経験も無い。
別に朱音がそれを強く望んだわけでも無かったが、それが純粋すぎた優の不器用な愛情表現だったのだと、今なら理解できる。
だが、二人が付き合い始めて八ヶ月を過ぎる頃になると、朱音の表情は徐々に曇っていった。
なぜなら、完全に二人の関係には上下があるように思えて仕方がなかったのだ。
尽くす側と、尽くされる側。
想う側と、想われる側。
いつしか二人の間にはそんな構図が出来上がっているように、思えた。
優のことは、もちろん好きだった。
彼の少年ぽいところや、陽気で面白いところ、何よりも人や動物、草花に至るまで、彼の優しさのわけ隔て無いところも。
だがその一方で、優に物足りなさを感じていた事も事実だった。
そもそも朱音は、力強さや少し位の強引さのある男性が好みだった。
自分が意地っ張りで、なかなかの頑固者だったから、そういう部分を上手くコントロールしてリードしてくれる男性が理想でもあった。
つまりは、優と正反対なタイプ。
だから優が自分の事はさておき、まるで 下僕かのように朱音に尽くしてくれることに、徐々に違和感を覚えていったのだ。
なんだか自分がひどく我儘なお姫様にでもなった様な居心地の悪さだった。
そのうちに、自分は優を好きなのか?愛しているのか?
優しくされるから好きなのか?
こんなにも一途に愛されているから気持ちを返さないといけないと思っているのか?
自分は彼のどこに惹かれて何を好きになったのか?
そんな疑問を抱くようになった、
そういう感情のすれ違いが生まれ、心の中に疑問符が付いてしまうと、一気にブレーキが掛かってしまうのが恋愛感情なのかもしれない。
朱音の心は、日を追うごとにどんどん疲れ、冷めていった。
そして、そういう中途半端な状態で付き合っている自分が許せず、一行に朱音の気持ちに気付かない優の優しさが、彼の独りよがりの押し付けのように思えてきた。
そして、もうすぐ一年記念日を迎える直前にとうとう朱音は別れを決意した。
「 優、私たちもう終わりにしない?」
学内の“ 憩いの広場 ”と呼ばれている場所に突然呼び出され、ウッドテーブルに向かい合って座った優は、朱音の突然のひと言に陽気に笑って首を傾げた。
「終わり?何をだい?……あ、この前一緒に受けるって決めた講議?」
的外れな返答をした優に、朱音は溜息をついた。
「もちろん、その講議も優とは受けないわ。なぜなら、……私、優とは別れるから」
朱音は、優の目を真っ直ぐに見て、はっきりと言った。
満面の笑顔だった優は、一瞬キョトンとした表情になる。
「 今、別れるって言った?……僕と、朱音が?」
「 言った。私、優と別れたいの」
躊躇なくきっぱりとした朱音の言葉は、さすがに優の顔から笑顔を消し去った。
「 理由を……聞いてもいいかな?僕、何かとんでもないことした?朱音の逆鱗に触れる様なことを……」
「 優が私に対して何かしたかどうかなら、答えはノーよ。たぶん、優は何も悪くない。私の気持ちがもう無理なの」
「だから、……どうしてだい?」
見る見る内にこわばっていく優の顔を、真っ直ぐに見続けるのはさすがに辛かったが、朱音は目を逸らさなかった。
「嘘も、綺麗事も、私は嫌いだからはっきり言うね。優といると、息が詰まるの。優の優しさは、私にとって重いのよ」
こういう事は、言葉を濁したり変な優しさを滲ませたりしない方がいいに決まっている。
朱音は、優の返事は待たずに一気に告げた。
「 私は、付き合うなら対等、もしくは男性に強くリードしてもらいたいタイプなの。優は間違ってもそういうタイプではないでしょ?いつでも私優先で、いつでも私の顔色ばっかり気にしてる。それが優の優しさなのはわかっているけれど、私が望んでいるものじゃないのよ 」
寝耳に水とは、こういう事をいうのだろう。
恐らくは、何一つ朱音のここ最近の変化に気付いていなかった彼が、突然最愛の彼女から別れを切り出されるとは予想もしていなかったのだろうから。
こわばっていた顔が、朱音の言葉と共に青ざめていき、先に目を逸らしたのは優だった。
テーブルの胸の前で組んでいた手元をじっと見つめて、優は呟く様に言った。
「……どうしたら、いい?どうしてあげたら……僕は朱音の負担にならなくなる?朱音が楽になるためには何をすればいい……?」
その言葉に朱音は小さく溜息をつき、きつく目を閉じた。
やっぱり彼は何ひとつわかってない!
彼を故意に傷つけたいわけではないが、別れ話を切り出すこと自体がひどく傷つけることになるならば、ここは腹を括るべきだ。
この際、自分の胸にある事はちゃんと告げて終わらせる方が後々お互いの為かもしれない。
朱音は、意を決して口を開いた。
「 そういうところが、無理なのよ。どうしていつでも私基準なの?私が望めば、優は何にでもなれるの?仮に今、私が『俺様タイプになって!』って言えば、そうなるの?究極、私の為に死んでと言えば、優は死んじゃうの?」
朱音の怒りを含んだ言葉に、優はハッと顔を上げた。
見ている方が辛くなるような哀しげな表情だった。
「 それが……朱音の望む事ならば、それで君が幸せならば、僕は最大の努力はするよ。君の為に死ねるのか……時と場合によるけど、不可能ではない気がする 」
その嘘のない誠実な彼の瞳に見つめられ、今度は朱音が目を逸らした。
こんな純粋な人は今まで見たことが無い。
そして自分の中に、今の彼の純粋な気持ちに応えられるだけの想いが無いことも、あらためて思い知る。
「……そういうのが、重いの。嫌なの。優のそういう気持ちが大きすぎて、私には受け入れられないの。私はそこまであなたを好きではないのよ、わかる?」
今度は優は答えなかった。
何かを堪えるように口を真一文字に結んでいる。
「 私は、付き合うなら対等でいたい。お互いを想う気持ちも、立場もね。でも私達は始めから違ってた。いつでも優の気持ちが私を上回ってて、気持ちでは私が下なのに立場はいつも私が上だなんて、アンバランス過ぎたのよ。だから、もうこれ以上そんなこと続けていけないと思ったの。だから、別れたいの……ごめんなさい 」
五秒ほどの沈黙の後に、優は俯いたままその青ざめた顔に笑みらしき物を 浮かべ、のろのろと小さく頷いた。
「……わかったよ。ごめん、鈍感で 。僕がそんなに朱音の負担になっていたなんて……全然気付かなかった……辛い思いをさせてたんだね、きっと。……ごめんよ」
手元を見つめたまま、絞り出す様にそう言った優の言葉は、やはり朱音を気遣ったものだった。
朱音は居たたまれなさと、何とも言えない苛立ちに包まれた。
「どうして?どうして優があやまるのよ!怒ればいいでしょ?なんて自分勝手なんだって!なんて我儘な女だって!こんなに良くしてやったのにって!」
そう捲し立てた朱音に、優は哀しげに笑って首を振る。
「 我儘なのは朱音じゃないよ、僕だよ。要は、最初から僕の片想いだったってことさ。それを押しつけて一年も付き合わせて、いい気になって恋人気分でいたんだ。オメデタイ奴だよな?笑ってくれていいよ 」
彼の自虐的な言葉は、思いのほか朱音を傷つけた。
朱音がこの一年、優にしてきた仕打ちを責められているようだった。
彼にひと目惚れされて、とことん優しくされて、今まで経験が無い位に愛されて……じゃぁ、自分は彼に何をしてあげられたのだろう?
この目の前でうなだれ傷ついている彼を、少なくとも愛していたと言えるのだろうか?
彼は、自分の片想いだったと言った。
私は一体彼に何をしてしまったのか……。
しばらく、朱音も無言で俯いた後、何かを決めた様にすっと顔を上げて椅子から立ち上がった。
「 話は、それだけよ。これ以上こうしていても意味がないから、……もう行くね 」
突然立ち上がった朱音を、優はゆっくりと見上げた。
彼と目が合うのを待って、朱音は精一杯の笑顔で笑った。
「 今までほんとに有難う。楽しい一年だったわ、……さようなら 」
“ さよなら ”を告げた瞬間、優の顔が苦しそうに歪んだことで朱音の胸は鈍い痛みにきしんだが、あえて無視してくるりと背を向けた。
高飛車だと思われても、潔く背中を向けたかった。
理由はどうであれ、優を捨てるのは自分なのだから。
「 ……… 朱音!!」
歩き出した朱音の背中に、優が必死さを滲ませながら呼んだ。
一瞬の躊躇の後、朱音は無表情に振り返った。
「……なぁに?」
「 この一年、少しでも僕を好きでいてくれたことはあったのかい?朱音は、ずっと我慢していただけなのか?」
テーブルに乗り出す様に朱音を見上げる優のハンサムな顔には、いつもの様な陽気さも無邪気さもなく、悲壮感と苦痛に歪んでいる。
突然、なぜかその頬をそっと撫でてあげたいような衝動に襲われたが、朱音は慌ててそんな思いは振り払って、あえて冷たい笑みを浮かべた。
「 優のことは、好きだったわよ。好きでもない人に抱かれる程、私は尻軽じゃないしね。でも、あなたが私を愛してくれたほどではなかった、ってことよ。今思えば……私の “ 好き ”は、愛ではなかったのかもしれない 」
朱音のその淡々とした言葉の最後を聞くと、優はがっくりとうな垂れた。
その肩が微かに震えているのを横目で見ながら、朱音はゆっくりとした歩調で彼の前から去った。
「 ひどい女でしょ?もう少し思いやりのある別れ方があったんだろうとは、今この歳になって思うわ 」
朱音は、ジントニックにいつも以上の苦さを感じて、眉をひそめて笑った。
「 男女の別れに、優しいも優しくないもないやろ?別れは、別れや。告げられる方も告げる方も、どっちも傷つくもんやと俺は思うけどなぁ 」
朱音は頷くでもなしに、グラスの汗を指で拭った。
マスターも自分用にウイスキーの水割りを作ると、一気に半分ほどあおった。
「 で、その優しすぎた元カレと、偶然にも再会したんか?それも初めての大口取引先で?」
「そう!それも相手は今回の仕事の担当責任者……って、そんなことある!?」
今日一日の動揺を、誰かにぶちまけたかった朱音だった。
「 いやぁ、そんなこともあるんやなぁ!?そんな“ 世間は狭い現象 ”は、ドラマか映画の中だけやと思ってたわ 」
「 そう思うでしょ!?これがどっかのレストランでバッタリとか、街中で偶然っていうなら見て見ぬ振りだって出来るけど、仕事先よ!仕事相手!有り得ない…… 」
朱音はぐったりと顔を伏せた。
それも相手には、まるで何も覚えていないかのようにあんな涼しい顔されて、動揺しまくりの私が馬鹿みたいで……。
「 まぁ、たしかにやりにくくはあるわなぁ。相手の反応はどうやったんや?ドラマかなんかでよくあるようなリアクションやったか?突然全身フリーズしてお互い見つめ合う、みたいな。で、BGMはほら、昔流行ったトレンディドラマの……」
「 マスター、楽しんでない?」
朱音が顔を半分上げながら睨むと、
「 他人の不幸は蜜の味とは言うけどな。いやいや、俺はそんな奴ちゃうで!?こんな風でも真剣に心配してるんやからな?」
そう言いながらも、あきらかに楽しげなマスターをもう一度ジロリと睨んで、朱音はグラスを飲み干した。
「……優は……ノーリアクションだったの。まるで私のことなんか記憶に無いみたいにね 」
“ 優 ” という名前を四年振りに口にすることにわずかな抵抗を感じた。
マスターは、二杯目のジントニックを朱音の前にすべらせて笑った。
「 良くできた男やないか?大人の対応やな。四年も経つと、見方も変わるし冷静にもなるってことや。そんなに心配するほど、やりにくくないかもしれんで?」
「 そうかもしれないけど……」
煮え切れない返事をした朱音に、マスターは首を傾げた。
「 なんや、こだわってるのは朱音ちゃんの方か?振ったのは朱音ちゃんやろ?」
マスターの尤もな問いかけに、朱音は苦笑するしかなかった。
優と別れてからの朱音は、それなりに色々なタイプの人と付き合ったりした。
元々は、男性からの誘いや告白は少ない方ではなかったから、相手選びにさほど不自由はしなかった。
優と付き合うまでは、誰かに告白されても、自分の心が動く人でないと受け入れられなかったのだが、優と別れた後の朱音は変わった。
朱音は確かめたかった。
自分の望んでいるものが、優に宣言した通りのものなのかを。
本当に、自分は強さや男らしさを求めているのかどうかを。
見るからに俺様風の体育会系の男子や、インテリ風のイケメン男子、理数系の大学院生、バリバリの営業マンまで、その後の二年間は一人でいることが無い位だったが、なぜかその内の誰一人として三か月と続く人は居なかった。
いや、続くとか続かないではなくて、朱音が誰も好きになれなかった、というのが正しかった。
そして、誰かと別れるたびに、虚しさと罪悪感とため息ばかり増えていった。
そんな馬鹿げたことを繰り返す中で、朱音は予想もしなかった結論に辿り着くこととなったのだ。
そう、結局、朱音は優が好きだった。
その優しすぎる性格に物足りず、朱音の為なら死ぬことも出来るかもしれないと、真っ直ぐな瞳で言って退けるその想いの強さが重すぎて、自ら冷たく傷つけて捨てたのに……
他の人と付き合えば付き合うほど、本当に自分が好きなのが田島 優だったなんて。
そんな都合のいい結論を今更認められるわけもなく……
約二年前から、朱音はこと恋愛に関しては心を閉ざしてしまったのだ。
誰とも付き合わない、誰も好きにならない、田島 優のことは絶対に思い出さない、それがこの二年間の朱音の鉄則だった。
それは、ほぼ完璧に守られてきた。
時折、街中や電車、バスの中で優に似た人を見かけて目で追ってしまいそうになる自分を、必死に喰い止めること以外は、完璧だったのだ。
それが、今日、あのわずか二時間足らずの間の出来事で、全てはひっくり返されそうになってしまった。
もし、今回の契約先をうちに指名されでもしたら……担当責任者が変わることなく彼で、うちの全ての担当を自分が請け負う事になったとしたら……これから旅行が済むまでの約半年間、彼と顔を突き合わせて企画を詰めていく事になったとしたら……
朱音はその先々に待っているであろう地獄を思って、絶望した。
最初のコメントを投稿しよう!