序章 月の光

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序章 月の光

 カーテンが音もなく揺れ動くと同時に、淡い月光がわたしたちを照らしました。くっきりとした満月の回りをふわりと纏わりつく光は、見るものを陶然とさせる力がある気がします。  この広い家には、わたしと夜の神以外、今はいません。義理の父もわたしの母も、仕事で忙しいのです。わたしは夜の神の広い手に導かれるように日々を過ごしていました。鳥籠の中の鳥だって、つがいがいれば満たされるように、わたしは夜の神以外を必要としたことがありませんでした。今だって、広い居間の、広いソファの上で、二人で布団にくるまって、私は彼の話に耳を傾けるのです。ソファの横にはグランドピアノがあります。義理の父が、彼のために買ってくれたものです。 「サヨ」  彼の名前は少し変わっています。実の父が、日本神話が好きだと言って名付けた彼の名前は、神そのものだったのです。夜の神。月の神。夜を統べる月の神、という表現が一番正しい気がします。 「寒くない?」  あなたがいるから寒くない、と私は笑いました。私の答えに、夜の神は満ち足りたような微笑みを浮かべました。そのままわたしの肩を引き寄せて、長い指でわたしの髪を漉きました。  夜の神はよく、音楽家や名曲にまつわる逸話を話してくれました。ショパンの『別れの曲』は日本人が勝手につけたものだ。リストの『二つの伝説』は、二人のキリスト教の聖人を元にしている。一人はアッシジの聖フランチェスコ。もう一人は、パオラの聖フランチェスコ。ラヴェルの「水の戯れ」は、リストの『エステ荘の噴水』が元である。バッハの『マタイ受難曲』の滴り落ちる音でのマリアの嘆きの表現。どれも大変魅力的に聞こえたのは、夜の神が話していたからでしょうか。  不意に、彼は一編の詩を詠いました。詠みあげる夜の神の声があまりにも素敵な音だったので、わたしはうっとりと瞳を閉じます。 「月に関する詩だよ。ポール・ヴェルレーヌ。太陽の影だった月は、19世紀になって神聖なイメージがつけられるようになったんだ。ジャン・パウルの『美学入門』では、月光と響きやむ音とはロマン的な性格であると。19世紀のロマン主義者は、知らない世界に誘うような幻想的な光を愛したんだ。ほら、見てごらん」  夜の神に導かれるように、わたしは瞳をひらき、顔を上げました。わたしが考えた、月の光は人々を陶然とさせると言う説は、太古の人も考えていた事のようです。月の光が、淡い黄金の輝きを持って地上全てのものに触れてきます。  夜の神の瞳と同じ色。  彼は布団から出て、ピアノに向かいました。 「弾いてあげる。何がいい?」  ピアノの名手である彼が、もっとも得意とする曲は二つ。一つはラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』。雫のように、完璧な丸にならない。繊細に揺蕩いながら終わりを待つ。夜の神の弾くラヴェルのパヴァーヌには、静かに逝きゆくものへの優しい抱擁を感じます。ですが。  私は別の曲を頼みました。一番大好きな曲。了解して、彼は長い指を鍵盤に落とします。黒ぐろとしたグランドピアノに星屑が落ちてきました。  淡い不協和音。曖昧にとろけるアルペジオ。  ここは二人だけの世界。ピアノの隣は、私の特等席。  ドビュッシー、『月の光』と。
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