第一章 月下

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 生ぬるい風と共に、犬の鳴き声が夜空を駆け抜ける。  この日の夜は晴天で、星々がやけに明るく地を照らしていた。何もなくても、指先の指紋までよく見える。街頭すらいらないと思うほどだった。幼い頃から歩いた道で、たとえ今、唐突に星がなくなって全くの暗闇になってしまっても、唐突に目が見えなくなったとしても、電柱はどこにあって、あと何歩進めば目的の交差点にたどり着くか、わかる自信が柚月にはあった。足の裏から伝わる微弱な感触や靴音が、どこを歩いているかを教えてくれる。それぞれの道によって、アスファルトや土の質は違う。  辺りの家は既に暗く静まり返っていた。どの家も住人が休みについた後のようだ。犬の遠吠えは柚月にとって心地よいものだが、殆どの人間にとっては安眠を妨害するものだろう。……遠吠えで、犬同士はどんな会話を行うのだろうか。  犬は大好きだ。愛犬のチヨを思い出す。しっぽをばたばたさせながら懐に飛びついたときや、次の日の予習をやっている時に「遊んでよ」とねだってくるのが、犬らしくて好きだった。チヨはもういないけれど、チヨがいなくなったことと犬が嫌いになることは符号で結べない。  チヨに想いを馳せながら、柚月は手に持ったメモを確認する。肩にかけたボディーバックの中に入っているのは、財布とiPhoneと、デジタルカメラ。iPhoneのカメラ機能があまり優秀ではないと知ったのは写真を始めてからだ。 『深夜0時。三好町、鹿の交差点』  読みやすく無駄のない文字だった。  国道である鹿の交差点は二車線あり、横断歩道を渡って向こう側に行くまで距離がある。柚月のいる歩道の反対側の歩道に、メモを渡した人物がいる。透けるほど白い肌に、すらっと長い手足。卵型の輪郭と、柔らかい鼻梁。顔が異常なほど整っている。腰まで長い淡いミルクティー色の髪を持つ、同い年の少女。  雨宮だ。彼女は何も持たずに信号機の下に佇んでいる。黒のワンピースに、黒いタイツ。少しずつ夏に近づいているのに、二週間前に初めて話した時と変わらない格好だ。  信号機が青くなる。  旅の道連れの少女が柚月の姿を確認する。彼女はにこりとも笑わなかった。
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