第六章 ラストワルツ

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第六章 ラストワルツ

……月読、と叫びながら、雨宮が柚月の首に腕を絡ませてきた。  夜十一時の音無邸。雨宮と「夜の神」が日々過ごした、グランドピアノが置かれた居間だ。 「月読。月読。会いたかった」  躊躇わずに飛び込んできた雨宮の柔らかい感触。水気を含んだソプラノではなく、あたたかな幸せに満ち溢れた声。抱きついた対象が「夜の神」だと思い込んでいる。 「わたしはもう、あなたを拒まない。前のようにサヨと呼んで。そして、たくさんキスをして」  ……シャツ越しに伝わる硬い感触。雨宮がつけている月のペンダントだ。夜の神から貰ったという、彼女の大切なもの。  柚月は雨宮の肩越しに、改めて音無邸の居間を見回した。グランドピアノが置けるぐらいだから、一般の邸宅としては桁違いに広い。サロンコンサートでも開けそうだ。人二人がゆうに寝そべれそうなソファ。テーブルはアンティーク調。広い窓から、草だらけの庭と、満月が見えた。 「あなたが生きるなら、わたしは一緒に生きる。あなたが死ぬなら一緒に死ぬわ。だからその前に、わたしの全てを奪ってちょうだい」  人を狂わせるほど冴え切った光が、天使の梯子のように降り注いでくる。  狂気の一歩手前ではなく、狂気の中に雨宮は揺蕩っている。  今から柚月が行うことは、雨宮の心を粉々に砕くかもしれない。耐えきれずに、もっと深い幻想の海に逃げ込んでしまうかもしれない。彼女は、夜の神とともにいることを望んでいる。夜の神は、彼女をそれは大事にしたのだろう。彼以外、何も見えなくなるほどに。  彼女の柔らかさに、無垢な瞳に決意がゆらぐ。保健室の傍で、剥製のような雨宮を眺めながら、柚月はもう少しこのままでもいいかと思った。このままなら、旅を続けられる。彼女との関係は心地よかったから。恋愛感情はなくとも、大事な旅の仲間だから。  今は違う誘惑だ。  このまま彼女のいう通りにすれば、自分は彼女の全てを奪った後に、彼女の白い首を絞めて、一枚の写真に収めるだろう。この世で最も美しい空間の出来上がりだ。自分の本懐も遂げられる。雨宮自身も「夜の神」とともにいることを望んでいる。……死ねば、本物の月読と彼女は会えるのだ。  ……本当はそうした方がいいのではないか。本当に彼女の望みを汲み取るなら、彼女の言葉通りにするのが正しいのではないだろうか。  おもちゃ箱の中の美しい死体にもう一度会える。  あの音がもう一度手に入るかもしれない。  決意は固めたつもりだった。それなのに、いざ雨宮を前にすると、とんでもない甘い誘惑が襲ってくる。足元がぐらっと揺らいだ気がした。  そこで。  全く唐突に。  犬の遠吠えが聞こえてきた。チヨの鳴き声に少し似ていた。犬の声によろめいて、尻のポケットからiPhoneが滑り落ちた。落ちた反動で中央のボタンが押され、起動される。起動画面が表示される。おやつをねだっている時の、笑顔のチヨがそこにいる。  チヨは音楽が好きだった。散歩が好きだった。ピアノを弾くと足元に寄ってきて、嬉しそうに鼻先を擦り付けてきた。チキン味の柔らかいおやつが大好きで、少しだけ柚月の母親を怖がっていた。  そんな大事な愛犬だった。  ――意識が引き戻された。 「雨宮」  雨宮は陶酔し、柚月が夜の神だと信じて疑わない瞳で見つめている。彼女は自分の本懐が果たされるのを待っている。柚月は、二人の体の隙間に両手を入れて、彼女の抱擁を解いた。肩を掴んで、体を引き離す。 「月読?」  不安を覚えさせないように、柚月は口の端を崩した。こうして月読も微笑んでいたかもしれないと想像を巡らせながら。 「どうして、わたしをサヨと呼んでくれないの? どうして、雨宮なんて言っているの?」  柚月はゆるやかに首を振った。 「俺は夜の神じゃない。夜の神の代わりでもない。そして俺はそいつみたいに、いきなりいなくなったりしない」  あくまで淡々と告げる。  何を言っているのかわからない、という汚れのない顔だった。その顔を見て、柚月は薄く笑った。 「――今からそれを証明してやる」  旅を終わらせなくてはならない。彼女をソファに座らせて、柚月はグランドピアノに向かう。
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