第六章 ラストワルツ

4/4
前へ
/44ページ
次へ
 久しぶりのグランドピアノでの演奏は、今まで弾くことを恐れていたのが馬鹿馬鹿しくなるほど、爽快な気分にさせられた。保存状態もよく、調律がされているのか、はじからはじまで弾いても寸分の狂いもなかった。唯一残念なのは、弾き手自身の未熟さだ。  ……高揚感を抑えて、柚月は雨宮を振り返った。  迷子の子供のような目で、雨宮が柚月を見つめている。弾き終わった後の疲れは、まだ拭いされていない。肩が凝り、腕が異常な重さを訴えてくる。  それでも伝えなくてはならない。この場所に彼女を呼び出したのは柚月だ。偶然にも知ってしまった事実を、伝えなくてはならない。 「君の兄さんは俺の先輩だったみたいだ。一度だけ、きちんと会った事がある。多分、君と兄さんが出会う前」  小学校一年の時。一番初めの発表会。もののけ姫の練習中。曲にすることよりも、音そのものを追いかけていた頃。  その人は一度だけ、レッスン中の柚月に一曲聞かせてくれた。次のレッスンの生徒が急に来れなくなって、その人が練習に来たのだ。 「やたらと綺麗な人だったよ。金色の瞳の。その人は、俺に初めて「曲」っていうものを教えてくれたよ。最初にこうして……音を鳴らしながら」  トーンと一番オーソドックスなドに指を置いた。昔からの柚月の癖。……あの人もこうしていたのだったら、恩田先生の影響かもしれない。昔教わったピアノ教師も、見本で引く前にこうして音を調整していた。  その人が柚月の前で弾いたのは、彼が次の発表会で弾く予定の曲だった。 「ベートーヴェンの「月光」だった。俺が今弾いたやつ」  幼い柚月が聞いた月読の音は、一楽章は月が泪をこぼしたかのような音で、三楽章はひかりが流れるような音だった。激情も清冽さもはらみながら、淀みなく流れ、一音が物語を作り出す。  パンフレットにもこう書いてあった。――音無月読 中2。ベートーヴェン「ピアノソナタ月光」、一楽章と三楽章。 「……でも、あの人はこんな曲を弾かなかった」 「君の前では、君の望んだ曲を弾いていたんじゃないかな。君のために。君は雷が苦手だろ。雷のような激しい音は。だから君の前では、君が安心できる曲しか弾かなかったんだ」  雨宮があげたタイトルは、どれも美しく、ゆりかごのように優しい曲だった。家では雨宮が好むような曲を弾き、学校や他のところで練習を重ねていたのではないか。……これはあくまで、柚月の推測だが。 「……それから。これ、君の兄さんだろう」  市営図書館でコピーした地方紙だ。雨宮の母の話を聞いた後、確認のために図書館の地方紙を漁った。  その記事は簡単に出てきた。  浦賀峰厚生総合病院。医療ミス。亡くなったのは二〇代の音大生の青年。肺がんの進行を見逃したのを隠していた。赤字経営。記事には亡くなった青年の担当看護師の発言がある。「ピアノの名手で、院内コンサートでも弾いてもらったことがある」と書かれている。きっとあのチラシの『亡き王女のためのパヴァーヌ』は彼が弾いたのだろう。会の日付は、彼が亡くなる二ヶ月前になっている。  そして、雨宮の母の言葉。ここで彼女の母は、柚月にこう語った。  二年前の秋に義理の兄が亡くなってから、あの子は余計人に寄り付かなくなった。とても綺麗な子で、ピアニストを目指していたのよ。  柚月は雨宮の母に半分確信を持ちながら、聞いてみた。  その人の名前は、「音無月読」だったのではないかと。  雨宮の母は、このグランドピアノの傍で、目を丸くさせながら頷いた。 「……違う。違う」  力なく、何度も否定する。瞳は揺れて、顔面は蒼白になっている。悲痛な色だった。 「あの人は死んでいない。ただ、わたしの目の前からいなくなっただけ。きっとどこかにいるはず。ほんとよ。嘘をつかないで」 「なら一緒に菩提寺に行ってみよう。彼の墓がある。それか、市役所。死亡届が残っているはずだから」 「嘘よ、嘘。そんなはずはないわ!」 「君が認められないのはわかる。どうしようもなく悲しいだろう。でも、君のお兄さんは死んでいる。骨も何も残ってない」 「――お願い、やめて聞きたくない!」  とうとう、雨宮は耳を塞いでしゃがみ込んだ。頭を抱え、膝の隙間からえずいたような嗚咽が聞こえてくる。……とんでもなく残酷な行為だと、柚月は自覚している。だから慰めたりは出来ない。 「ねえあなた。あなたはどうなの? あなただって、わたしと似たようなものでしょう。あなただって、ありもしない場所を求めていたじゃない。私にそう言えるの? ねえ。どうしてこんなひどいことできるの」  からっぽの声で、雨宮は言葉をつなげてくる。  責められても仕方がない。柚月は雨宮の言葉をすべて受け止めた。山の中で「望めばきっと会える」と慰めたのも、柚月自身だ。今思えば、知らないとはいえ、何と無責任な言葉を吐いてしまったことか。 「……そうだね」  柚月は否定しなかった。静かな肯定に、雨宮の顔が凍りつく。 「俺も君も、ただ幻想を求めていただけだ」  自分の血も、同じように凍った気がした。  彼女に対する言葉は、棘になって柚月に帰ってきた。ありもしない「死体を飾れる場所」を探していた自分。病院で、幻の犬を追いかけていた自分。もしかしたら、あの音をもう一回出せるかもしれないという、浅はかな願望。……彼女のことを、こうして言えるような身分ではないのだ。  幻想を求めながら隣を歩く雨宮と柚月は、鏡のように似ていた。……その鏡を最初に割ったのは、他でもない柚月だ。 「あの人は、私に、ずっとそばにいるって言ってくれたの」  悲しみの雨が落ちるように。雨宮の唇から、哀切な音が溢れた。 「うん」 「ずっとよ、ずっと。……それなのに、どうしてわたしを置いて逝ってしまったの。あの人が死ぬなら、わたしも一緒に死にたかった」 「でも君の兄さんは、自分の時間を君に与えてくれたんだろう。君が眠れるように。君の心がいつも平安であるように」  それは大変に尊い行為に感じられた。  チヨは、柚月にとって兄妹みたいな大事な犬だった。今チヨが現れても、一緒に散歩したいと思うし、ピアノを弾いている足元に寄ってきて欲しいと思う。ピアノだけではなく、今度はチヨの写真もたくさん撮りたい。一緒にいたいのは、チヨのような可愛い犬、ではなく、兄妹のように育った大事な犬だ。  チヨはもういない。  それでもチヨといた時間は、かけがえのないものだった。 「……わたし、これからどうやって生きていけばいいの。思い出は確かに美しいわ。でもそんなの先に逝ってしまった人の言い訳よ。置いていかれた人はどうすればいいの。あの人しか、わたしにはいなかったのに」 「それをこれから考えたらいいんじゃないの?」  ゆりかごから出てくる時が近づいている。彼女を守っていた人はもういない。雨宮は無惨に粉々になった鏡を踏んで、血を流すのを恐れている。 「わたし一人なのに?」 「一人じゃないだろ」  柚月はあくまで冷たく聞こえるように努めた。 「君の母さんは君をずっと心配していたみたいだ。会いたくないって君に拒絶されても、ずっと君を見守っていたよ。義理のお父さんも。横を見れば二人はいる。……それに俺だって、目の前にいる」 「あなたも?」 「いきなりいなくならない、って言っただろう」  雨宮の瞳から、大粒の涙が溢れた。そこからは止まらなかった。再び、子どもみたいに大声で泣き出した。  柚月はこれまでの雨宮小夜子の姿を頭に思い浮かべた。山下南公園で大の字で語るヴェルレーヌ。欄干の上。夜のプールサイドで恍惚的に心中を語る。幻想の生首を掻き抱き、雷に恐れて目を瞑る。廃病院での哀願。剥製のような寝顔。熱に浮かされた湿った吐息。……ありのままだと思っていたが、違った。全てが、夜の神のヴェールに包まれていた。  そのヴェールが剥がれた彼女は、美しくも、弱々しく、頼りない。  これがきっと、彼女の本当の姿なんだろうと思った。  柚月は雨宮の背中をさすった。傷口を塞ぐように。言葉よりも明確な行為で。  泣き続ける雨宮の隣で、彼女が落ち着くまでそうしていた。
/44ページ

最初のコメントを投稿しよう!

13人が本棚に入れています
本棚に追加