終章 それは大変に感傷的な散歩

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終章 それは大変に感傷的な散歩

月読がもういないと告げられた夜。無様に汗を垂らしながらピアノを弾いた遠野くんは、泣いているわたしのそばにいてくれました。月読のように優しい言葉はくれません。抱きしめてもくれません。  ただそばにいて、背中をさすってくれただけでした。  耐え難い事実に傷める私の心に、軟膏を塗ってくれたようでした。  一晩中泣き続けて、落ち着いた頃。鮮やかなひかりをまぶたに感じました。ぼうっと頭を上げます。窓の外から差し込むのは、一日の始まりを告げる暁。 「朝だ」  隣の遠野くんが呟きました。  日輪が、少しずつ夜を晴らしていきます。陽のひかりよりも、暗闇に浮かび上がる孤高の月の方が、よっぽど美しいと感じていました。  ですが、月だって陽のひかりがなければ輝けないのです。  ……生まれて初めて、わたしは陽のひかりの眩さに目を奪われました。    母に会ったと遠野くんに打ち明けられたのは、それから二日経ってからでした。私の元の家も、母が彼に教えたようです。だから彼は、音無の家にわたしを呼び出せたのです。その時に、君の母さんはいろいろ話してくれたと遠野くんは言いました。  わたしの実父と離婚して、数年後に月読の父と再婚したこと。再婚する際も、苗字は変えなかったこと。音無の義父は多忙で、母の新しい仕事場も東京だったこと。ずっと、歳の離れた義理の兄に、わたしを任せっきりだったこと。……母の眼から見て、わたしは彼に異常なほど懐いていたこと。東京には行かないという私に、母は売りに出す音無の家の代わりに、昔二人で住んでいた部屋を与えたこと。  月読の墓参りに行こうと言ってくれたのは、遠野くんでした。もう一度会えると思い切っていたわたしは、そこに行ったことがありません。彼の提案に、わたしはすぐには頷けませんでした。わかってはいましたが、改めて目の当たりにするのが怖かったのです。 「なら、一緒に行こう。大丈夫。多分、兄さんは君がきてくれるのを待っているよ」  あの夜に言った時は、わたしをただ納得させるためだったように思います。……今回の提案は、月読のため、そして、わたしに区切りをつけるためなのかもしれません。  菩提寺は市内にありました。遠野くんは線香を、わたしは白百合を持って、音無家の墓に向かいました。  菩提寺の庭に植えられた紅葉が真っ赤に燃え盛っています。石畳の階段を登って辿り着いた黒い墓石の正面には、音無家之墓と書かれています。裏には、この墓に入っている方々の名前が明記されていました。月読の祖父と思しき方、祖母と思しき方。そして……音無月読。  本当に、この世にはもういないのです。  花を添える手が震えます。わかってきたことですが、どうしても悲しみには勝てません。白百合を花立に入れた瞬間、わたしは泣き崩れてしまいました。何度も何度も、義理の兄の名前を呼びました。この涙を、拭ってくれた人はもういない。あなたが死んでしまって悲しい。どうしてわたしも連れて行ってくれなかったの。あなたがいる場所に、いますぐわたしも行ってしまいたい。あの時拒絶してごめんなさい。でも、やはり怖くて怖くてたまらなかった。……言いたかった言葉も、伝えたかった思いも、あなたを傷つけるかもしれない言い訳も、全て涙が吸い込んでいきます。  泣いて、泣いて。泣き疲れてもなお涙がとめどなく流れます。そんな時に、遠野くんがハンカチを貸してくれました。  彼の優しさは、月読とは少し違いました。優しい言葉とともに抱きしめながら守るのではなく、わたしが立ち上がれるように、何も言わずに手を取って支えてくれる。  そんな、器用とはいいがたいものでした。  遠野くんは墓前にしゃがみ込み、線香に火をつけました。枝から落ちた紅葉が墓石を飾っていきます。白い煙の糸が引かれ、線香の先端が静かに赤くなります。夏に見た、プールサイドに落ちた火の花に似ていました。  線香を置いて、彼は目を閉じて手を合わせました。 「今は悲しいけど、いずれは君たちの思い出が結晶化して、自分の一部になる時がくるんじゃないかな」  墓参りの帰り道、はらはらと舞い落ちる紅葉の中で、遠野くんは淡々とつぶやきました。淡々と聞こえるように努めているのだと思いました。……口ぶりの中に、わずかな哀愁が込められていました。  彼もまた、大事なものを失ったことがあるのでしょうか。  昔、月読が『亡き王女のためのパヴァーヌ』を弾きながら語った言葉が、少しだけ理解できた気がしました。
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