終章 それは大変に感傷的な散歩

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 文化祭というイベントは、若々しい活気を校内に充満させている。廊下も講堂も教室も、どこもかしこもかしましい。タピオカを売りたい屋台が元気に売り込みをして、軽音部らしいバンドの音が聞こえてくる。演劇部はハムレットを演じるらしく、上演のチラシを配っている。焼きそばの匂いに、コーヒーの香り。  松崎が提案した2年3組の「アートカフェ」は静かながら盛況だった。ラテアートやアレンジコーヒーを求める客で殺到し、硬い教師陣も唸りを上げた。北欧のカフェ風に仕上げた店内も好評で、騒がしい文化祭に一息をつきたい生徒や客の、憩いの場所になっていた。 「なあ柚月、知ってるか?」 「何がだ」  文化祭の一日目。今はクラスの当番中で、柚月はペーパードリップでコーヒーを入れている。隣の松崎が、柚月の入れたコーヒーをアレンジしていく。チョコレートとミルクを入れたカフェモカ。生クリームを浮かべたウィンナーコーヒー。韓国で人気のダルゴナコーヒーもある。しばらくしたら、「ガンダーラ」の老爺が来るはずだ。電話で自分がブレンドした豆がどう使われているか楽しみだと老爺は話していた。老爺と顔を合わせた後、休憩のタイミングで適当に他のクラスの催し物を見回るつもりだ。  二日目は、ボトルにコーヒーを入れて、写真部の来る人の少ない一角でのんびりと過ごす。どこも回らない。 「雨宮小夜子だよ! 入野が教えてくれたんだけど、どうも今月末に引っ越すらしいんだよ。あー、ちくしょー。さっさと声かけるべきだった!」  知っている、とは言わなかった。先日彼女に打ち明けられたのだ。  雨宮は柚月と墓参りに行った後、母と義父に会ったようだ。話した内容を詳しくは聞かないが、一緒に暮らすことにしたのだ。引越し先も知っている。東京の、義父の元だ。 「どうせならカレカノになりたかったなー。それで、いろいろデートして、あんな事やこんな事をするんだよ!」  あんな事やこんな事ってなんだよ。誤ってそうなりかけたわと心の中だけでつぶやいた。知らない分、気楽でいいものだ。 「一つ、くださらない?」  松崎の欲望丸出しの発言を受け流していたら、水気を含んだソプラノが聞こえてきた。  コーヒーを入れる手を止めずに、柚月は顔を正面に向ける。想像通り、目の前にいたのは、制服姿の雨宮だった。学校という水槽の中に紛れ込んでいる。前に抱いた違和感は消えていた。黒いワンピースではなく、冬の制服を来た雨宮は、頭のてっぺんから爪先まで、夜の神を求めた散歩者ではなく、完璧な高校生だった。  長いミルクティー色の髪が揺れている。柄にもなく松崎が緊張していた。口をぱくぱくさせて、絶句している。雨宮の長いまつげで縁取られた瞳が、魚になっている松崎を見つめている。柚月はあくまで知らない生徒として接した。彼女にメニュー表を見せる。 「いらっしゃいませ、何になさいますか?」 「そうね、これがいいわ」  雨宮がメニュー表を眺め、注文の品を指で指した。注文を承ったところで、ようやく松崎が正気に戻った。柚月が入れたブラックコーヒーに、泡立てたミルクを注ぎ、ミルクの泡の上に金平糖と金粉を降り注いでいく。……彼女に渡すぐらいはしてもらおう。今まで関わることを望み続けた、松崎のためにも。 「金粉と金平糖を星に見立てた、カフェ・マリアテレジアです」 「女帝の名前なのね。とっても美味しそう」  宝物のように、雨宮がカップを抱えた。ありがとう、と言って雨宮は教室から出て行った。静かな余韻を残して。 「松崎?」  松崎は口をぽかんと開けてほうけている。神のように美しい絵画を見た時のような顔だった。 「……俺、もういいや。綺麗すぎて触れらんねぇ」  親友の呟きが、コーヒーの香りに紛れていく。 「あの子を大事にする人が現れて、その人と幸せになるのを願うわ」  そうか、と柚月は答えた。  いつか松崎に本当に大事な人ができたら、その時には話してもいいかもしれない。雨宮小夜子と自分が、どんな時間を過ごしたのか。何度も夜を歩いたことも、山の麓に行ったことも、あと一歩で間違いを起こしそうになったことも。この明快な親友なら、全部笑って聞いてくれるだろう。  *  何もない雨宮の部屋の僅かな家電を売り払ったら、彼女の荷物はとても少なくなった。引っ越しの荷物は、キャリーケースと財布が入った肩掛け鞄だけだ。  十一月の最終週の土曜日。 「忘れ物はない?」 「大丈夫よ、あったとしても、捨てても構わないものだから」  雨宮の引っ越しの日は、雲ひとつない冬晴れの日だった。新幹線の停車の駅まで移動し、東京を目指す。駅のホームには誰もいなかった。  旧音無邸は売却が決まったらしい。雨宮はいつか、月読と一緒にこの家に戻れると思っていた。それも夢の泡に消えた。あのアパートに彼女が住む理由は、何一つなくなった。グランドピアノはどうなるのかと尋ねたら、それも売りに出すようだ。このピアノを見ると月読を思い出すから。  彼女はこれから、「雨宮小夜子」ではなく、「音無小夜子」になる。母娘ともに、音無の姓になることにしたのだ。 「一つ、疑問があるんだ。どうして君の母さんは、別姓で結婚したんだろう」 「……この間聞いてみたのよ。母さんは一回結婚で失敗しているから。苗字が変わってしまったことで、わたしに迷惑をかけるのは嫌だったみたい。……でもそれは、兄さんに余計な煩悶を生んでしまったわ」  雨宮は初めて、柚月の前で月読を「兄」と言った。煩悶の内容は、柚月は推し量るより他はない。だけど、雨宮も月読も、余計な思いを巡らせて欲しくはないだろう。  全てゆりかごの中の、二人だけの記憶だ。 「……あなたには、たくさん迷惑かけたわね」 「でも俺はなかなかいい時間が過ごせたと思うよ」  たくさん写真を撮らせてもらった。無駄な時間ではなかった。柚月も雨宮も、あるべきではないものを求め続けた豊かな旅。柚月にとって、おもちゃ箱の中のおもちゃのような死体は、老爺の言う通り確かに宝だった。そして……。 「そういえば雨宮、君の好きなドビュッシーの『月の光』。あれの、本当の曲名を知っているか?」  彼女が知らないことを承知で、柚月は口を開いた。 『月の光』には、ドビュッシーがつけようとして、結局つけなかった旧題がある。ベートーヴェンの『月光』を弾く際、アナリーゼで使った資料の中にたまたま明記されていたのだ。 「ベルガマスク組曲第三番。……『感傷的な散歩』」  雨宮が僅かに目を見開いた。  まるで今までの自分たちのようだ、と柚月は思う。  初冬の風が吹いた。踏切が甲高い音を立てた。アナウンスが上り列車の停車を伝える。  雨宮は首の裏に手を回した。ペンダントの留め具を外す。雨宮の手の中でころころと月が踊る。ぎゅっと握ってから、柚月にそれを渡した。 「……これを、あなたに」  わたしの一番大事なものだから、あなたに持っていて欲しい。雨宮の月が、柚月の手のひらで極彩色の光を放つ。 「確かに受け取ったよ。俺からはこれ」  柚月は雨宮に、分厚い封筒を渡した。別れ際に渡したかったもの。だから、見送りに来たのだ。彼女の一歩を見届けるために。  封筒の中身は、今まで彼女と撮った全ての写真だった。文化祭や写真部で発表しなかったものもたくさんある。それら全てを現像した。廃病院のピアノ。廃校の幻想の生首。橋の欄干の雨宮に、夜のプールの心中写真。 「……いいの?」 「旅の終わりの記念に。まぁ、写真はやめないし。……この間賞を獲ったしね」  岩永は文化祭の後に引退し、柚月が写真部の部長を引き継いだ。一人しかいないのでのんびりできると思った矢先、柚月の写真が写真コンクールで入賞をした。岩永が勝手に賞に送った、廃病院のピアノの一枚だ。その噂を聞きつけて、一年生が二人入部してきてしまった。野球部の為に灼熱のアルプススタンドに行かなくてはならないと思うと気が滅入るし、新入部員の指導もある。これからが思いやられる。が。  それも少し楽しみになってきている自分がいる。  今度写真を撮るのなら、今までと違うものになるだろう。  見る人間に豊かな音を思い起こせるような。そんな一枚を撮りたい。  駅のホームに列車が停車する。まばらに人が降りてきて、乗車の番になった。 「雨宮」  乗る直前に、柚月は雨宮を呼んだ。彼女も名残惜しげに振り向いた。  ……泣いている雨宮の背中をさすった時、もういいかと思えた。柚月は、自分の中にあった欲が、静かに消えていくのを感じた。代わりに、胸に温かいものが灯った気がした。もしかしたら、初めてこの少女を愛おしいと思ったのかもしれない。  だがそれは、新しい場所に行くと決めた彼女に言うべきではないのだ。  だから柚月は、彼女が一番安心する顔を作った。かつて雨宮が指摘した「完璧な顔」ではない。  親しいと思える人に向ける、友愛の顔。 「道中、気をつけて。……またいつか」 「……ええ。またいつか」  雨宮は少し笑って柚月に答えた。闇を晴らし始める暁のように静かで鮮烈な、そんな美しい笑顔だった。  電車の扉が閉まる。旅の仲間を乗せた電車は、ゆっくりと発車して行った。  再び冷たい風が流れていく。誰もいなくなったホームで、柚月は電車が見えなくなるまで、その場に立ち尽くしていた。  家に帰って柚月が真っ先にしたことは、居間のアップライトピアノの鍵盤蓋を上けることだった。先日母が調律師を依頼したので、音は狂っていない。ドの場所に右の人差し指を置く。オーケストラの音合わせのように。トーンと鳴り響く音に、めざとく母親が訪ねてくる。珍しいわね、何か弾く気になったの? と。 「まあ、そろそろ弾いてもいいかなと思ったんだ」  再び、恩田先生のところに通ってもいいかもしれない。ピアニストになるためではなく、自分の音を豊かにするために。  もう一度ドの音に指を置いた。  明らかに拙い。けれど懐かしい一音が溢れ出した。  ピアノの天板にはチヨの写真が立ててある。その横に、柚月は雨宮から受け取ったペンダントを置いた。  写真の中のチヨは満面の笑顔だ。長い旅から戻ってきた柚月を迎えるように。  おかえり、と言っているようだった。   (了)
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