美しい雨

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「きりーつ。れーい。ありがとーございましたー」  生徒たちの気の抜けた号令で、今日の学校が終わる。村井先生が一旦、職員室に行くために教室を出てしまうと、生徒たちの緊張の糸が一気に緩んだ。教室の中は、熱っぽい喧騒に包まれる。そんな空気の中僕は、帰り支度を始めた。教科書を鞄に詰めながら、ちらりと隣を見る。雨宮さんは、静かな表情で淡々と机の中身を鞄に入れている。その様子を見ていると、昼休みに皆から言われたことが信じられなかった。どう見ても普通の子にしか見えない。僕ははっきりしない気持ちを抱えながら、鞄のチャックを閉めた。一方の雨宮さんは、一冊の本を手に取り鞄に仕舞おうとしている。目に入ったその表紙を、僕は思わずじっと見つめてしまった。  虹橋明日架。  僕が一番好きな作家だ。 「あの、この本……」  僕は思わず、雨宮さんに話しかけた。雨宮さんは、驚いたように僕を見る。 「この本、知ってるの?」  初めて聞いた彼女の声は、柔らかく透き通った、綺麗な声だった。 「僕も好きなんだ。虹橋明日架。それ、最新作だよね」 「うん。すごく面白いよ」  心なしか、雨宮さんは表情が柔らかくなったように見える。僕はクラスメートたちの刺さるような視線を感じたけれど、気付かないふりをした。雨女とか、どうでもいい。雨宮さんともっと話したい。僕の気持ちはそれだけだ。 「雨宮さんは、どの作品が一番好き?」 「うーん……選ぶのが難しいけど、『透明な思い出』かなぁ」 「それ、僕も読んだ。透明人間と人間のハーフの女の子が主人公の話だよね」  雨宮さんが、一生懸命に『透明な思い出』のどこが好きなのかを語り始める。それを見て、こんなにしゃべる子だったんだ、と僕は思った。雨宮さんは“無”じゃない。本当は、豊かな感情の持ち主なんだ。 「日野君は、どの作品が一番好き?」  初めて雨宮さんから会話を始めてくれた。それが嬉しくて、僕は顔をほころばせてしまう。 「僕は『鏡越しに手を合わせて』かな。主人公が、鏡越しに異世界の人間と友情を深めていくっていう話」 「面白そうだね! 私、その本まだ読んでないから、今度読んでみるね」 「そうだ。良かったら、僕の本を貸してあげるよ。僕は読み終わってるから、ゆっくり読んでくれて大丈夫だし」 「え、いいの?!」  雨宮さんは、花が咲いたような満面の笑みを浮かべた。僕はその笑顔に、思わず見惚れてしまった。 「ありがとう!」  雨宮さんがそう言った時だ。さーっという音が、窓の外から聞こえた。それは次第にしとしとという音に変わり、風は土くさいような、独特な香りを運んでくる。   ――雨だ。 「何だよ、今日天気予報では晴れるって言ってたよな?」 「俺、傘持ってきてないんだけど」 「今日自転車で来ちゃったよー」  クラス中から、不満の声が上がる。雨宮さんからは笑顔が消え、その表情は硬くなってしまっている。今は教室にいない方が良い。僕は帰ろう、と雨宮さんに声をかけようとした。 「雨宮が笑ったせいで雨が降ってきたんじゃね?」  クラスの誰かその言葉を発した瞬間、教室中の視線が雨宮さんに注がれた。村井先生は、まだ戻ってこない。誰もこの空気を変える人間はいなかった。 「ずっと“無”でいろよな」 「そうだぞ、“雨女”」    雨宮さんの表情は静かなままだった。でも、大きな瞳に溢れてきた雫が、雨宮さんの頬に流れて光る。  もう、我慢出来ない。 「行こう、雨宮さん」  僕は、雨宮さんの手を引いて教室を飛び出した。鞄も置きっぱなしだ。 「日野君?」  雨宮さんも困惑している。それでも僕は、足を止めなかった。何なんだよ、あの転校生! という声が教室から微かに聞こえてきた。  僕たちはそのまま廊下を走り抜けた。歩いている生徒たちに二度見され、通りすがりの先生には廊下を走るなと怒鳴られながら、昇降口までたどり着く。そして、僕は上履きのまま外に飛び出した。 「日野君、濡れちゃうよ!」  雨宮さんが、僕を屋根があるところに連れ戻そうとする。僕はそれを振り払って、雨に濡れ続けた。さっきよりも強くなってきた雨が、僕の耳元で音を立てる。  ポツポツ。  ポツポツ。  雨が、僕の熱い身体をひんやりと包んでいく。 「めっちゃ気持ちいいぃぃ!」  僕は思い切り叫んだ。
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