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花の月、鬼灯の日
〈橄欖32年 花の月 鬼灯の日〉
昨日、初めて日記というものを知った。
入った夢の中で、人間チャンが日記をつけていたのだ。
私はとーっても忘れっぽい妖怪で、そんな自分がお茶目で大好きなんだけど、それはそれとして、これってすごく便利じゃない?って思ったんだよね。
だって、こうやって記録をつけとけば、すごく、すごく、すごーく美味しかった夢の味を、いつでも思い出すことができるじゃない?それって……言わなくても分かるよね。
……最高じゃん。
だから、私のグルメな日々を記録することにしたのさ。
そしたら、さっそく今日、とびきり素敵な味の夢を食べちゃったんだよね。これはぜひ日記に残しておかないとだよ。
どんな夢だったかっていうと……。
***
夢の中に入ると、薄暗い洞窟の中みたいな場所だった。
洞窟には川が流れていて、その川の水面が、光ったり暗くなったりを繰り返している。まるでホタルイカが放つような不思議な光が、水の中で踊っているみたい。
なんて幻想的な景色!夢ってこういうところがいいんだよね。
私はさっそく、光る川に顔を近づけて、キラキラの水を掬って飲んだの。
こーんなに素敵な風景なんだから、それこそファンタジックな味を期待しながらね。どんな味だろう?きっと甘くて美味しいんだろうな〜……と思ったら、これがビックリ!なんと塩辛い味がしたんだよ。思わずむせちゃってさ。
もう、なんかガッカリしちゃって。あちゃーって感じよ。せっかくこんなに綺麗な川なのにって思った。
気を取り直して、洞窟の奥の方へ進んで見たの。
そして洞窟の奥には、大きな木があった。
まるで巨大な山羊のようなツノが何本も生えた木だ。
その巨木の前には、一人の少女がいた。
年齢は多分10歳くらいかな。
少女は何か、手のひら位の大きさのものを持っていたよ。
私は、すぐにその子が夢の主だと分かった。夢の主を刺激しすぎると、夢が熟す前に終わっちゃうから、獏は本能で夢の主が分かる様になってるんだよね。
で。まぁ、その女の子を刺激しないように、風景と同化しながら近づいたんだ。女の子の手の中のものが気になったからね。私は女の子の前に回り込んで、覗いてみた。
そこにあったのは……卵。鶏の卵みたいな。全体が真っ黒で、でも、光の加減によっては金色にも見えた。不思議!
女の子は卵を抱えたままずっと黙っていたけれど、しばらくして、ぼそりと言った。
「今日もうまくいかない」
それから大きくため息をつく。
「いつもこう。失敗ばかり。こんなんじゃ駄目なのに……」
それからまたしばらく沈黙したあと、急にハッとした顔をして、あたりを見回し始めた。そして、近くに誰も居ないことが分かると、少しだけホッとした表情を見せた。
「よかった。誰にも見られてないみたい。わたしの情けないところなんか、絶対見せられないもん」
そう言って、もう一度深くため息をついた。
彼女は卵を自分の顔の高さまで持ち上げると、じっと見つめはじめる。
私も、女の子に釣られて卵を見た。
すると、その卵を通して、何かの映像が見えて来た。
それは、女の子の姿だった。
映像の中で、女の子は一人で泣いていた。
『練習ではあんなにちゃんと弾けたのに、どうしてお母さんが見てる前で指が動かなかったんだろう』
『なんで?どうして私はできないの?』
『もっとちゃんとしなきゃいけないのに。わたしがしっかりしないといけないのに。』
『頑張らなくちゃ』
『頑張らなくちゃ。お勉強も、ピアノの練習も、もっとがんばらないと!』『もっとがんばって、立派な大人にならないと』
『もっと、いい子にならないと』
そう言ったあと、彼女はさらに強く泣いた。声を殺して。
私は、その映像を見るまで、この卵をつまみ食いするつもりだったんだ。だけど、このまま食べても、どうにも苦い味がしそうな予感がしたんでやめといた。
その代わり、女の子に声をかけることにした。
「あら、ずいぶん頑張ってんのねぇ」
女の子は驚いたのか、小さく悲鳴を上げた。
そして、あわててこちらを向く。
「ぁ……」
その途端、夢が不安定になった。
見られたくない、みたいなこと言ってたから、誰かがこの場にいるのがショックだったんだろうなー。
女の子は泣きそうな声でこう答えた。
「……見てたんですか?」
「まあね。そういう生き物なもんでさ」
「…………」
女の子は俯いている。何か言いたげだったけど、言葉が出てくることはなかった。
私は構わず話を続ける。
「あなたの住んでる世界のこと、私、夢を通じてしか見てないから、なんにも知らないのよねー。だけど、そんなに頑張らないといけない所なの?」
女の子はしばらく黙った後、小さな声でこう呟く。
「全然、がんばれてなんかない……」
「ええ?そーお?」
「……私が、がんばれない悪い子だから、お母さんは怒るんです。もっとがんばらなくちゃいけないのに。もっと努力しないとだめなのに。だから……だから……もっとがんばらなきゃ……。わたし……お母さんのために……もっともっと……がんばらなきゃ……。そうしなきゃ……いけないの……」
ポツリと女の子は言った。
「……だから、いつもこの木の下で、この卵を捨ててるんです。こんな、泣いちゃう自分は……弱い自分は、いらない。がんばれない自分は、私じゃないから」
そう言いながら、手に持ったままだった卵を、地面に叩きつけようとした。
私は慌ててそれを止めた。
「あーっ!ちょっと待った!」
私は、女の子の手にあった卵をひょいと奪い取った。
長年夢を食べてきた、夢ソムリエの私にはわかった。このままこの子が卵を割るのを見届けたら、この夢は全体が苦くなって、とてもじゃないけど食べられたもんじゃなくなっちゃう……ってね。
私は、苦い夢はあんまり好きじゃなかった。この夢がこのまま苦い夢になってしまったら悲しかった。
だから、この獏さんが、ちょちょいと手を加えて、美味しい夢にしちゃおう!って思ったんだ。
夢の調理は、下手するとものすごーく苦い悪夢になっちゃうけど、うまくいけば、それはもう美味しい夢ができることがあるんだ。
「か、返してください!それは、誰にも見せちゃいけないものなんです!早く壊さないと……!」
女の子はぴょんぴょんと飛び跳ねながら、私から卵を取り返そうとする。
私はそんな女の子の手をひょいっとかわす。
「この卵に向かって、優しい言葉をかけてあげてくれたら、返したげるよ」
「え……?」
女の子は不思議そうにする。
私は言った。
「もう一度、この卵に映ってる人間チャンをよーく見てごらん」
「嫌です……そんな、弱い自分なんか、見たくない……」
「それじゃ、卵に映ってるこの子を、自分じゃない誰かだと思ってよく見てみて」
「え……?」
女の子は訳が分からないようだったけど、とりあえず言われた通りにしたみたい。卵をじっと見つめる。
『痛ッ……』
映像の中の女の子は、ピアノを弾いている最中、突然小さな悲鳴をあげた。
その小さな手に、沢山の豆ができていた。
『大丈夫……大丈夫……痛くない、痛くない……』
そうやって自分に言い聞かせるように呟きながら、自分の手のひらを見つめる女の子。
手をさすって、痛みにポロポロ涙を流しながらも、女の子は演奏をやめなかった。
それ以降も、映像の中の女の子は、ずっとずっと弾き続けていた。
卵の中の映像を見て、女の子は目を見開いていた。
「……あ……」
それから何かに気づいたように目を見開くと、女の子はゆっくりと目を閉じた。しばらくそのままでいてから、やがて目を開けた。その瞳からは涙が溢れていた。
「……ほら、今かけてあげたい言葉を、そのまま卵に言ってあげてよ」
私がそういうと、女の子は、卵の中の映像に話しかけるように呟いた。
「……大丈夫?すごく頑張ったね。でも、そんなに傷ついてまで、がんばらなくていいよ。あなたはこんなに頑張ってて、それだけで、誰にも負けないくらい、強い人だよ。……誰かの為に、無理しないで」
そう言ってから、女の子は卵を両手で優しく包み込んだ。
「あなたのことが、大切だよ。だから、お願いだから……傷つかないで」
女の子は泣きながらそう言った。
女の子がそう言うと、映像の中の女の子はハッとした表情をして、それから涙で顔をぐしゃぐしゃにしながらこう言った。
『うん……ありがとう』
その瞬間、女の子が手に持っていた卵が淡く光りだした。その光は徐々に強くなっていき、ついには目も開けていられないくらい眩しくなった。
世界全体がパアッと明るく白んでいく。
夢が熟したんだ。
そう、私はこの時を待ってたんだ。
夢が熟すのは一瞬。
夢と現実の狭間、醒めかけが一番おいしいんだ。
私は目をつぶったまま、心の中で言った。どんな味になったのかな。期待に胸が膨らむ。
私はまばゆい光に溢れた洞窟の地面を蹴って、夢の外側へ飛び立った。
目の前の光景がどんどん遠くなっていく。卵も、女の子も、洞窟も、すべて小さくなっていって、最後には真っ黒な空間に輝く光の球体になった。それはまるで、琥珀色のキャンディーみたいだった。
「いただきます」
私は、それを指先で摘むと、大きく口を開けて、パクリと口の中にいれた。
まず最初に感じたのは、軽やかな食感だった。舌の上で転がすと飴玉みたいにカロカロと小気味良い音がした。ほのかな甘みに歯を立てるとパリンと割れて、中からトロッと甘い液体が溢れ出す。飲み込むと喉の奥がカァっと熱くなった。熟成されたブランデーのような風味は、喉を通る時こそ少し苦かったけれど、後に残る甘さはとろけるよう。飲み込んだ後も、その余韻はいつまでも続いた。
それから次に感じたのは、爽やかなミントの香りだった。甘みと辛味と清涼感が混ざり合ったような複雑な香りは、口の中を洗い流すようにスッと鼻を抜けていった。
そして最後に感じ取ったのは、確かな幸福感だった。
……ああ、なんて美味しい夢!今まで食べたどんなお菓子よりも甘くて爽やかでフルーティーで……!最高に幸せな気分になるわ! 私の口の中で次々と変化するその味わいに、私はすっかり虜になっちゃった。
……そしてそれが喉を通って胃袋に落ちる瞬間まで、私はこの夢を楽しみつくした。名残惜しかったけど、その夢の味を十分に堪能してから、ゴクリと飲み込んだ。すると、まるで夢が溶けてなくなるかのように、お腹の中に吸い込まれていった。
「……ああ、おいしかった。ごちそうさま」
私は大変に満足して、ゆっくりと目を開いた。
***
……まあ、こんな感じ。本当に、なかなか巡り合えないような美味しい夢だったんだよね。でもさ、私みたいな夢喰い妖怪には時々あるんだよねぇ、こういう事。
なんていうのかな?たまにいるのよ。びっくりするほど風味豊かな夢を持った人間チャンがさ。今回はちょこっと私が介入しちゃったけどね。天然の夢にこだわる獏もいるみたいだけど、私はどっちにしろ美味しければオッケーだなって思う。
……はあ、それにしても美味しかったなあ。基本的に、同じ味の夢は二度と食べられない。完全に同じ内容の夢は存在しないから。似たような夢はあっても、味のニュアンスが違ってしまうのだ。私は既に、あの夢の味が恋しくなっている。……でもまあいっか。美味しい夢の味付けができたし、日記もつけた。なんて偉いんだろう!自分を褒めたくなっちゃうわ。……さてと、そろそろ眠たくなってきたし、今日の日記はここまで!
日記の続きは……また、グルメな夢を見た夜に。
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人間界のとある街。
そこは、様々な店が建ち並ぶ都会の街だった。人通りも多く、若者の活気に溢れた賑やかな場所だ。
その街でも有数のコンサートホールの舞台袖で、1人の老齢の女性が佇んでいた。彼女は今日ここで行われる演奏会の主役であるピアニストだ。
その彼女の隣には、年若い青年が立っていた。青年は、緊張した面持ちで彼女に告げる。
「いよいよですね、先生」
「ええ……」
彼女は頷いたあと、大きく深呼吸をする。その様子はどこか悠然としており、気品に満ちている。
「先生……こんな大舞台なのに、全然緊張していないんですね。さすがです」
青年が感心したように言うと、彼女は微笑んで答えた。
「いいえ、そんなことありませんよ。これでも緊張してるんです」
「え?そうなんですか?」
「ええ。……ただ、こうして落ち着いていられるのは、きっと……」
そういうと、彼女はふと懐かしむように、遠い目をした。
「きっと……なんですか?……あの、おこがましいですが、僕、先生のようなピアニストになりたいんですが、よく緊張しちゃって……ぜひ、その悠々とした貫禄のある心構えを教えてほしいんです!」
彼は勢い込んで尋ねる。彼女に憧れる若者らしい反応だった。しかし彼女はクスリと笑ってから答えた。
「あのね。……実は私、昔はすごーく、プレッシャーに弱かったの」
「え?」
彼女が意外な事を言うので、青年は驚いた顔をした。
そんな彼に笑いかけながら続ける。
「うちは、両親……とくに母親が厳しくてね。どんなに練習しても、一度も誉めてくれなかった。私は、うまくできない自分を責め続けたし、そんな自分が嫌いだった。自分は全然頑張れてないって、ずっと感じてた」
「そうだったんですか……」
「そのとき、よく同じような夢を見たんだけど。いつも真っ暗い洞窟の中から始まって、私は小さい卵を手のひらに持ってるの。卵は真っ黒でね。よーく目を凝らすと、その卵の中に、失敗した私や、泣いてる私の姿が見えるの。私はいつも、その卵を叩き潰す。そこで、息切れして目が覚めるの」
青年は黙って彼女の話を聞いていた。
「でもね、ある時……ふふっ、私もよく覚えてないんだけどね?その夢の中に、知らない人がでてきたの。……白と黒のまだら模様の髪を……してたような気がするわ。それで、その人が言うの。その卵に、優しい言葉をかけてあげてって」
「……優しい言葉ですか?」
青年は首を傾げた。そんな抽象的なことを言われても困るといった表情だった。そんな彼に向かって女性は説明するように話を続ける。
「そう。私も最初は意味が分からなかったわ。だけど、『誰か他の人だと思って、その卵を見てみて』っていわれたの。言われた通りにしてみたら……とても頑張ってる少女の姿がそこにはあった」
「……」
「その子は泣いてた。血が出るくらいの豆を重ねながら、それでもピアノを弾いてた。私は思ったわ。『この子は、ずっとがんばってきたんだなぁ』って。それで、気づいたの。この子がとても優しい子だってこと。優しくて頑張り屋さんで強い子なんだってことに。……だから、私は『もう、そんなに傷つかないで。あなたのことが大切だよ』って声をかけたの。……それが、私が私を認められた、最初の瞬間だったように思うわ」
彼女はうすく微笑んだ。
「他人を愛するように、まずは自分を愛すること。自分の弱さを抱きしめてあげられること。誰の評価よりも、それが何よりも大切なことを、私はその時知ったの。夢から覚めた後も、そのことを何度も思い出したわ。そういう風に考えるようになってから、少しずつ生きるのが楽になっていったの。母親に認めてもらえないのは凄く寂しかったけど、お母さんが何言ったって、私は頑張ってる!って、胸を張れる様になったの。ウソみたいな話だけどね、私は自分自身に救われたの。……自分と親友になることができた。今、こんなに穏やかな気持ちでここに立っていられる理由の一つは、それかな」
「なるほど……」
青年は神妙な顔で頷く。
「あなたもいつか、分かる日が来ると思うわ」
「はい!ありがとうございます」
「ふふ……じゃあ、そろそろ時間ね」
そう言って、彼女は演奏の準備を始めた。
会場からは拍手が聞こえる。もうじき開演の時間だ。
(……そういえば)
彼女はふと思った。
(あの人は、いったい誰だったのかしら。夢の中で出会ったあの人……)
彼女は首を傾げる。
夢の中に出てくる人が、現実の知人や知り合いだったりすることは珍しくない。
自分が人生において、大切なことを知るきっかけをくれたあの人と、一度でも現実で会ったことがあっただろうかと考えてみる。
けれどいくら考えても思い出すことはできなかった。
(……もしも、あの人とどこかで会うことがあったら)
彼女は思う。
(その時は、きっと声をかけよう。……私の夢の話を、聞いてくれたら良いな)
そして演奏が始まった。観客の拍手に包まれながら、彼女は優雅にお辞儀をする。
スポットライトの光が彼女を明るく照らし出す。
まるで彼女自身が光を放っているかのようだった。
そして彼女はピアノを弾き始める。
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