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昭和の頃からあるような二槽式の洗濯機が、リノリウムの床の上でがたごとと揺れている。
母は床に尻をつけて両脚を投げ出し洗濯機にもたれかかって一緒になってゆらゆらと揺れている。背中を丸め深くうつむき、顔が真下を向いている様子は、まるで糸の切れたマリオネットだ。ちゃぷちゃぷと洗濯槽の中で水が飛沫をあげる。それにあわせて切れ切れに、かすかな声で何事かをつぶやいている。
「母さん、冬悟が来てるんだ。見てやってくれ。今年で十六歳になったんだよ」
父は母の肩をゆすり耳元で大きな声を出す。しかし母は反応しない。いつものことだ。
「……胆振日高地方の天気は雪……降水確率は80パーセントです……では地表近くの寒気の上に海からの暖気が……逆転層が生じる地域があるでしょう。雨氷となる恐れがあります充分注意してください」
ラジオか何かで聞いたのだろう天気予報の言葉を、母は機械のように繰り返している。意味などない。母の魂はここにはない。
「もういいよ、父さん。少なくとも今日は調子よさそうじゃないか。それがわかっただけでもいいじゃないか」
いつまでも母の肩をゆすり、耳元で呼びかけ続ける父を、冬悟はそう言って制止する。いつまでも希望を捨てようとしない父の姿に半ば呆れ、半ばうんざりしながら。そんな風にしか感じられない自分に、静かに絶望しながら。
冬悟の母は生まれつき霊感の強い娘だった。ごく幼い頃から、行ったことのない家の失せモノのありかを言い当て、占いをさせれば驚くほど詳細に未来を予言した。長じるに連れ霊能力は増大し、天災を警告し、何の知識もないはずの株価の暴落を予告し、町会議員や企業の経営者から頼りにされる存在にまでなった。だが、一人の女として父を愛した頃から精神の平衡を失いはじめ、幻覚や妄想に苦しめられるようになり、冬悟が七歳になるのを待たずに苫小牧の精神病院に入院、以後、そこから一歩も出ない生活を送る。
だから冬悟にとっては母とはもとからこういう存在だった。会話も出来ず、こちらの存在に気づきもしない、たまに泣き叫んだり暴れたりする壊れた人格、そういうものとして受け容れていた。
周囲の人々が母を生神扱いせず、もっとはやい時期に適切な治療を受けさせていれば、そんなふうにはなっていなかったかもしれない。母の霊能を利用しようとした人々が、母を狂気に追いやったのだ。ときどき、そんな怒りに駆られることがある。だが、長続きはしない。病気ではない母を冬悟は知らないからだ。入院する前から母の人格はひび割れていて、そばにいると恐怖を感じることがあった。母に愛されていたのかどうか、冬悟には自信がもてなかった。
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