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「いらっしゃいませ」ではなく「おかえり」の声で迎えられた。
ユックレップ、丸木舟という意味の名のその喫茶店にはほかに客はおらず、カウンターの中にもほろ香がいるきりだった。貝沢ほろ香は肩にかかる長い黒髪をうなじあたりでゆるくたばね、ゆったりとカウンターによりかかっている。
マスターは、と尋ねると、人差し指を上に向けた。屋根の雪下ろしをやっているらしい。
ほろ香はこの喫茶店の娘で、冬悟の同級生だ。つきあいは長い。
「コーヒー、熱いやつ」
「一人なの?」
「親父は疲れたっていって寝てる」
本当は一人になりたいのだろう。そう思って置いてきた。
「冬悟くんは平気?」
「運転してたわけじゃないからな」
「そう」
疲れているわけではない。父のように傷ついているわけでもない。平気なつもりだった。やり場のない怒りと無力感は、いつだって心のどこかを占めている。
「お手!」
ほろ香が寄ってきて、犬にするみたいなことを言って手のひらを差し出してきた。
「おまえな……」
文句を言いながらもその手に手をのせると、温かな両掌で包み込まれた。
ほろ香はそれ以上何も言わない。冬悟も何も言えない。ほろ香を見ることさえできない。だが、滑らかなその両手から、充分な優しさが伝わってきた。
「よし!」
やっぱり犬に命令する調子でほろ香はそう言ってあっさりと手をはなした。手に残るほろかの温もりをもてあましながら、
「あんまり俺にかまうなよ」
冬悟は下を向いたままそう言った。
「どうして」
「あいつの取り巻きに見られたら、また何を言われるかわからない」
「私、そういうの気にしないから」
傍から見れば、冬悟とほろ香の関係は特別にも見える。あの女は二股をかけている、そういう噂を流す手合いが、学校には少なくなかった。
「俺はおまえがいなくても平気だから……」
「そんな寂しいこと言うなよお」
「寂しいのはおまえだけだ。俺は平気だ」
ほろ香は黙る。顔を上げると、ちょっと泣きそうな目でこちらを睨んでいる。
「だから、俺にかまわなくていい。ただな……止めるつもりなんか今更ないけど、あいつは、あのタケルって男は、そんなにいい奴じゃないぞ」
小学校のときクラスが一緒だった。「ひかりの環」の幹部の子だった。
「知ってるよ」
洗いものをしながら、ほろかはさらりと言う。
「私だってそんなにいい人じゃない。みんな同じだよ」
「そういう問題じゃないんだって」
ほろ香は半アイヌだ。中学校の頃はそれでいじめられていた。「和人」の子からも、純粋なアイヌからも。
「私はね、架け橋になりたいの」
皿をすすぎながらそんなことを言う。
地元の人間と信者の間の。そういうことだろう。
その役目の重さがどれだけのものか、こいつはわかって言っているのだろうか。そもそも橋なんか望んでいない人々のことを、こいつは理解しているのだろうか。
「おまえはいい奴だよ」
だから、傷つくところなんか見たくない。そう言いたかったが、言葉にできなかった。
ほろ香の携帯が鳴った。タケルからだとすぐにわかった。「……うん、わかった。待ってる」短いやり取りだけで通話は切られた。
「今日、デートだったのか」
下を向いたまま冬悟は尋ねた。
「町まで行って、食事しながらお話するだけだよ」
「そりゃデートだよ」
冬悟は席を立ち、カウンターに五百円硬貨を置いた。
「気をつけろよ」
「何に?」
くっきりとした眉と鼻筋。切れ長の涼しげな目。それがきょとんとした顔で冬悟を見返す。改めて問われると、自分でも何故そんなことを言ったのかわからない。
「いろいろだよ」
「わかった。いろいろ気をつける」
店を出ると降り止まない雪の中、黒塗りのセダンが近づいてくる。タクシーではない。運転手つきの教団幹部の専用車だ。
通り過ぎる一瞬、後部座席のタケルと目が合った。
中指でも立ててやればよかった。
すれ違ってから、そんなことを思った。
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