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 アイヌには、特に霊感にすぐれたトゥスクルと呼ばれる女性を生み出す家筋がある。汐見文月はその後裔だった。小学生のころに中耳炎を患い、聴覚に障害を負った彼女は、それを補うようにして霊感に目覚め、人には聞こえない声が聞こえるようになった。例えば周囲の人々の心の声であったり、この世ならぬものの呼び声であったり、そうした特殊な声を聞き取る能力は文月が生きていくのを助けはしたが、周囲の子供たちの残酷さを減らしはしなかった。話すことが苦手な文月は周囲の子供たちの残酷なからかいの対象となって、成長するにつれ、文月はほとんど口をきかない少女になった。  カラオケに誘われたのが好意なわけがなかった。歌えない者に無理に歌わせて笑いものにしようというのだろう。友達と一緒に行くと返事をして、彼らの居場所を聞き出し、冬悟に伝えた。冬悟はタケルからほろ香の居場所を聞き出すだろう。冬悟が無茶なことをしないようについていきたい気持ちもあったが、文月には他にもやるべきことがあった。  文月にとってほろ香はただのクラスメートではなかった。ほろ香は文月を差別せず、嘲いも憐れみもしない数少ない存在だった。中学のとき同じ図書委員となり、お互い、本の趣味が似ていることに気づいた。気に入った本を紹介しあい、自宅の小説を貸し借りする仲になった。ほろ香となら、ただ隣り合って座って小説のページを繰っているだけで、いくらでも満ち足りた時を過ごせた。生粋のアイヌたちが半アイヌのほろ香をいじめの対象にしようとしたとき、文月は何をされても彼らの仲間には入らず、ほろ香を守ろうとした。もし自分に友達と呼べる存在がいたとしたら、それはほろ香以外になかった。  だから、今もしほろ香が自由を奪われているのなら、自分は行動しなくてはならない。「ひかりの環」が敵となるなら戦わなければならない。タケルの言葉が本当ならほろ香は学習センターと呼ばれる施設にいるはずだった。正面からさぐりをいれてみる。そのつもりで三風谷行きのバスに乗った。  三風谷の学習センターは「ひかりの環」全体の中でも主要な教育研修施設だった。 「北海道の大自然の中で、真理について私たちと学びませんか」夏休みや春休みの大学生をそんな言葉で誘い、三泊四日や、七泊八日の研修を行い、つまりは洗脳によって信徒に仕立て上げる。ネットではそう噂されていた。 「真理について勉強したくて来ました」施設に正面から乗り込み、エントランスでそう言った。高校に負けない大きさの、しかし彼らの通う高校と違って古ぼけては見えない清潔な施設だった。柔らかな笑顔を浮かべた、しかしどこかうつろな目をした受付の青年は、疑う様子も見せず、個人情報を聞き出すようなこともせずに、あっさりと文月を招じ入れた。 「初めての方には、入門用のビデオ教材を見てもらうようになっています」そう言って、ネットカフェのようなブースに案内された。 「ビデオが終るころに、また来ます」青年が静かにそう言って出て行ったときには、ビデオの再生がもう始まっていた。 「ひかりの環への道 1」ヒーリングミュージックふうのBGMとともにそんなタイトルが大きく表示された。ビデオの内容は想像していたものとは大きく違っていた。  早すぎた埋葬について。  中世ヨーロッパの歴史上の記録から、話ははじまった。医学が未発達で、なおかつ土葬が習慣化されていたヨーロッパでは、死者とみなされ棺に入れられ、あるいは埋葬された死者が息を吹き返すことが少なくなかったと言う。その記録は十三世紀からはじまり、十六世紀には百例以上の記録が残されているという。十九世紀に至っても誤診などによる生きたままの埋葬は後をたたず、万一息を吹き返した死者のために、土中から地上へ連絡を取る装置を内蔵した「安全な棺」が発明され、数多く販売されていたという。  問題は死の定義と判定であるとビデオは語る。二十世紀半ばになり、脳波の測定技術が発達すると、脳死を人の死と捉える態度が一般に広まった。しかし一方でここでも、長期間の脳死から甦る人々が記録され続けていた。D.A.シューモンの一九九八年の調査によれば、一七五例が脳死判定後一週間以上、心臓鼓動していたという。脳死状態で一年以上心臓が動いていた例が三例ある。最長例では二一年間心臓が動き続けた。これは四歳で脳死判定された男子であり、脳死状態で身長が伸び、論文発表後も成長し二十歳を超えた。二〇〇四年に死亡(心停止)した後に解剖されたが脳は死滅しており、人間の統合性は脳がなくても維持されることが示唆されている。  脳死は人の死ではない、そうビデオは語る。死には幾つもの定義がある。脳死、脳幹死、脳機能死、心臓死、全細胞死。それら無数の定義のどこに、ポイントオブノーリターンがあるのか。 我々はまだ、その真実の答えを知らない。  ビデオの第一巻はそこで終っており、文月はいささか呆然としてしまっていた。  本日はここまでとしましょう。もしよければ、予約カードにご記入いただけますか。  受付の青年が戻ってきて隣に腰掛け、A六判ほどの紙片とボールペンをさしだしてくる。 洗脳などされていないつもりだったが、言われるがままに次回来館の予定日時を個人情報とともに書き込んでしまっていた。 「どうですか。第一巻のご感想は」 「『ひかりの環』に対する印象が変わりました」 「みなさん、そうおっしゃるんですよ」 「ところで、私の友達がここで研修を受けてるはずなんです。一緒に帰ろうかと思うんですが、今何をしているところか、教えてもらえませんか」 「残念ながら、お答えできません。汐見さんは今日のビデオから学んだことをよく反芻して、全体化してください。修行の階梯が違う方同士が一緒に話し合うと、よくない混乱が生じる場合があります。今日学んだことは汐見さん個人のかけがえの無い体験として全体化して欲しいのです。ですから、誰かと話し合ったりせずに、汐見さんお一人のものとして今日の体験を持ち帰ってください。ご理解いただけますか」 「わかりました、じゃあ、彼女が何時ぐらいに帰るのか、それだけでも教えていただけませんか」 「個人情報は厳重に管理されています。私はそれを知る立場にありません」  青年は仏像のような笑みを浮かべたまま、滑らかな口調でそう言った。その気になればまだ食い下がれそうだったが、ここで怪しまれてもまずい。文月は引き下がった。
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