美魔女社長のオフィス

1/1
9人が本棚に入れています
本棚に追加
/12ページ

美魔女社長のオフィス

 冬休みに入った頃、私は再び東京へと向かった。 年末の就活応援をハローワークが開催していると兄貴が情報をもたらせてくれたからだ。 就職難は全国共通のようで、この時期は特に熱心のようだ。 私は今度こそ失敗しないようにと、髪から足の爪先まで念入りに磨き上げてきた。 それほど気合いを入れて上京してきたのだった。 入り口で渡された、受付ナンバーの入った名札を胸元に付けて面接の時間を待った。 心を冷静に保ち、自分をアピールすること。 それに専念した。 会場には沢山の協賛企業がブースを設けていた。 私は午前中に出来る限り多くの会社を回ろうと思った。 午後には行きたい場所があったのだ。 それは以前正午ピッタリに始まるあの番組のスタジオのある場所だった。 この就活フェスティバルは、まだ暫くこの場所で開かれるらしいので。  冬休みだから会場は人で溢れている。 こんなにも就職難民と呼ばれている人が居るのかと思って、少しなめてた自分に気付く。 それでも私は駅に向かい、山手線に乗り換え可能駅まで乗車した。 新宿駅で降りた頃にはもう既にお昼近くになっていた。 上を見て掲示板をチェックする。 「あれっ、ない」 私はホームで戸惑っていた。 何故だか解らない。 JR新宿駅のホームには西口へと向かう案内板が無かったのだ。 目安にしようとしていたのに…… 初めて来た時には気付かなかった。 でも、確かにあると聞いていたのに西口が表示されていなかったのだ。 そこには南口ともう一つ別方向。 なんだか解らないのけどそちらには行けないと思った。 仕方なく南口の改札口方向へ歩き始めた。 私はその時失敗したと思った。 反対方向に行けば東口にたどり着いたかも知れなかったから。 でも私はどうして西口へ行きたかったのだ。 ある場所を確かめるために。 田舎者にとって、新宿駅地下街は巨大な迷路その物だった。 いや、東京全体がラビリンスだったのだ。  本当は西口から北方面に行く予定だった。 だから南口に向かって歩き始めたのだ。 途中で引き返すことも出来た。 でも私はそのまま歩みを進めた。 西口へ向かう本当の目的、それは…… ガード下を潜り抜けて歌舞伎町に行くこと。 でも、それは出来ないことだった。 アイツに負担がかかると知っているから……  だから、目的を変えた。 誰でもいい。 タジオから出て来るタレントに会いたいと思ったんだ。 もう子供の頃観ていたあの放送はしていないと解っていたけど、きっと何かで使われている。そう考えたのだ。 やはり東京に来たからには有名人に会わなくちゃ。 私はバカに張り切っていた。 ミーハーだと思う。 私は苦笑しながら其処を目指した。 苦しまみれの言い訳だと解ってはいた。 複雑な気持ちのままで私はとりあえず南口方面へと足を進めたた。 もう見ることの出来ないお昼の番組。 それでも歩き出した。 其処へ行くには南口を出て左に曲がれば良い。 でも私は右に曲がっていた。 やはり西口をどうしても確かめたかったのだ。  私は西口に向かって歩き始めた。 その途端に木枯らしが吹いた。 「わあ、寒い。やはり手袋必要だったかな?」 独り言を言いながら、袖を伸ばして手の甲を隠す。 そしてその先に僅かに出た指に息を吹き掛けた。 (東京は暖かいって聞いたんだけどな……) 私はもう一度指先に息を吹き掛けてから、又歩き出した。  街中至るところでクリスマスツリーがある。 私はもうすぐクリスマスだと言うことさえも忘れていた。 いや忘れようとしていたのかも知れない。 就職も決まらない私にはクリスマスも、次にやって来る正月もない気がした。 「これもツリーって言うのかな?」 私は青いペーパーらしいツリーらしき物に目がいった。  でも私の目は、道路の反対側にある大きな丸い物に奪われていた。 蔦に覆われた二つのそれは、互い違いに不気味な姿をさらしていた。 「何だろうあれ?」 私は独り言を呟いた。 「あぁ、あれは確か通風口だったと思うけど」 バス停の前を通りがかった親切な人が教えてくれた。 「通風口ですか? もしかしたら高速道路の上の部分にあるような物ですか?」 「まぁ、そんなとこかな?」 私はさっき歩いていた、山手線のホームから繋がる駅中商店街を思い出していた。 それは大きな口を開けている様に見えた。 (雨の日は大丈夫何だろう? みんなずぶ濡れだったりして) 私はそんなことを思いながら笑っていた。 (あ、私笑ってる) 何故かそれだけで嬉しくなっていた。 「これから何処へ?」 「タレントの出待ち。だけど番組自体……」 同じ歳位だったので私は素直に答えた。 (東京の人は気さくだな) 私はそう思った。  停留所の前では大勢の人が中野行きのバスを待っていた。 それが何処に在るのかさえも解らないのが、名前だけは聞いた覚えがあった。 「あっ、それだったら解るわよ。でも、今遣っているのかな? 彼処まで結構あるわよ。近道知っているから案内してあげる」 その人はニコニコしながら、私の手を繋いだ。 (親切な人だなぁ) 私は疑いもせず、その人に付いて行った。 新宿駅西口から少し行くと暗いガードがあって、下を潜るとその先に歌舞伎町はあると言う。 だから私は其処を通りたかったのだ。 でもそんなこと聞ける訳がなかった。 そう、私が一番行きたい場所。 それはアイツが働いている歌舞伎町だったのだ。 歌舞伎町をもう一度見て見たかったのだ。 道に迷って困ったら、新宿区役所の場所を聞けばいい。 勿論カモフラージュだけど、私は本気でそう思っていた。 兄貴を尾行したあの日の通りに行けば良いこと位解るけど、それがどの道だったか記憶が定かではなかったのだ。  「じゃ行くよ」 その人はそう言うと、私の前を歩き始めた。 自然に手が離れていく。 (あ、待って……) 私は慌ててその人の背中を追い掛けた。 進行方向にある階段は代々木駅に繋がっているらしい。 そんなことを兄貴が言っていたのを思い出した。 上にカバーの付いた階段で、ふと立ち止まる。 「ん、何か此処に用事かな?」 その質問に首を振った。 「これって、代々木駅に向かう高架橋ですか?」 思いきって聞いてみた。 「確か兄貴が、この先に明治神宮があるって言っていたから」 「あー、それなら反対側よ。デパートの前からあるの。新宿駅は終点だから、あんな凄い舗道を作ったのかな?」 「明治神宮って、原宿で降りるものだとばかり思っていましたからビックリした記憶があります」 「此処からも行けるとは思わなわよね。結構道のりはあるけどね何とか行けるわ」 私は正月は田舎で過ごしたいと思っている。 それでも日本一の初詣客を集める明治神宮にも行ってみたいと思っていた。 「そんなにかかるのですか……」 「恋人と一緒ならあっと言う間かもよ」 その人はそう言って笑った。  暫く歩いて行くと、東口近道と表示されている道があった。 「こっち、こっち」 その人が手招きをする。 私は又を後追った。 其処は地下道だった。 「もしかしたらこれが歌舞伎町に繋がってる道?」 思わず出た独り言。 慌てて口に手を当てた。 そっと、その人を見る。 でも彼女は私の発言に気付いていないようだった。 その通りは結構明るい。 確か…… 新宿駅西口から少し行くと暗いガードがあって、下を潜るとその先に歌舞伎町はあるとアイツは言ってた。 それに、兄貴を尾行した場所でもなかった。 (どうやら此処は違うらしい) 一度来た位で解るはずがない。 私はあの歌舞伎町に繋がる地下道を確かたかったのだ。 もう一人の兄貴が勤めている場所を。 (きっとこんな場所が沢山あって……私だったら確実に迷子になるな) 私は東京迷路の怖さを改めて感じていた。 (兄貴と東口で待ち合わせした時は、駅員さんとか交番のお巡りさんとかに道を尋ねてたどり着いたんだったな) 私はふと、あの日の光景を思い出してゾクッとしていた。 (あの俳優達のことなんか忘れたいのに……) きっと私は何かがある度に思い出し、悪寒に襲われる。 私は改めて助けくれたアイツに感謝していた。  そんなこんなしながら出口に到着した。 その先には、あの日見た懐かしい景色が広がっていた。 スタジオの反対側の道路で様子を見てみたかった。 せっかく東京に出て来たのだから、あの馬の水飲み場近くで見たかった。 でも私は引っ込み思案で前には出られない性格なんだ。 これを何とかしたいと思いながら其処にいた。 手前の建物にはクリスマスツリーがあった。 それは今まで見た中でも大きい方だった。 「ちょっと悪いんだけど此処にいてね」 その人はそう言いながら、スマホを取り出しメールを始めた。 「ねえ、貴女モデルやらない? ドクモじゃない、本物のモデル」 「ドクモ?」 「へー、貴女ドクモ知らないの。益々気に入ったわ。あ、ドクモって言うのはね、読者モデルのことよ」 「あー、良くバラエティーに出てくる」 「そう。ねえやらない? 貴女スタイル良いし可愛いから……」 その人はそう言いながら、スマホをバッグに締まった。  「あれっ、アンタ」 イベント広場の手前にあるクリスマスツリーの横で声を掛けてきた人がいた。 それは橘遥さんだった。 「ダメだよ社長この子は。ほらこの前話したでしょう。私の代わりに拉致された子よ」 社長と声を掛けられたのは、今まで私と一緒にいた人だった。 「社長!?」 私は驚きのあまりに大声を発していた。 「シッ!」 橘遥さんが、人差し指を唇に当てた。 「声がデカイ。社長は良いけど、私が見つかるとヤバいの」 私は橘遙さんの言葉を聞いて、慌てて手を口に持って行った。  私はさっき、新宿駅西口のバス停前で声を掛けられた。 あの時、同じ歳位だと感じた人が社長だった。 私は本当に驚いてしまったのだった。 気付いたら口をポカーンと開けていた。 「ね、ビックリでしょう。これでもこの人ミソジなのよ」 「味噌時? 味噌汁タイムですか?」 「あ、ごめん。三十代ってこと」 「え!?」 その返事に、私は驚きを隠せず目を丸くした。 「誰だって驚くわよ。こう言うのが、今流行りの美魔女って言うのよ」 美魔女…… テレビで見たことはあった。 でもその美しさは半端じゃなかった。 どう見ても二十代前半。 いや十代に見えた。 だから私は何の警戒もしないで一緒に此処まで来てしまったのだった。  「市場調査員って知ってる?」 その言葉を聞いて、首を振った。 「色々と調査してレポートにまとめたりしているのよ。特に健康食品会社をね。其処から、色んなサプリメントを提供して貰ってアンケートなんかに答えることもあるの。あ、それはモニターって言うの。そう言えば解るかな?」 「この人、それでこの美貌を手に入れたのよ。ま、私にしてみたら化け物だけどね」 橘遥さんがそう言いながらウインクをした。 話半分に聞けってことらしい。 「あぁ、モニターなら……、確か母が県の行政モニターをしていました」 私はわざともっともらしい話をした。 「あら、お堅いこと」 「でしょ。だからこの子は誘いに乗らないよ」 橘遥さんはそう言って笑った。 あのウインクの意味はやはりそうだったのかと納得した。 橘遥さんは、本当は親切な人だったのだ。 橘遥さんが何故此処に居るのかは判らない。 でも社長はタレントをスカウトするためにあちこち回っていたようだった。  たまたま新宿駅で橘遥さんと待ち合わせしていたらしい。 あのメールは、橘遥さんをイベント広場横のクリスマスツリーに呼ぶためだったのだ。  私達はその後で社長のオフィスに寄ることになった。 其処は自宅兼事務所になっているマンションだった。 社長はモデル志願の女性と其処で待ち合わせていたようだ。 だから、私を連れて来たのだった。 (きっと又モデルの話題になるな) 嬉しいと思いながらも警戒していた。 私に務まるはずがない。 そう思っていたからだった。 「将来は別にオフィスを構えたいけど、それは贅沢よね」 テーブルにコーヒーをセットしながら社長は言った。 アロマとでも言うのだろうか? 独特の香りが、私の顔まで綻ばせたようだ。 広角が上がったように感じた。 「社長のコーヒーは定評があってファンが多いのよ。本物のブルーマウンテンだからかな?」 「ブルーマウンテンに偽物なんてあるの?」 「ブルーマウンテンはレゲエ発祥地として有名なジャマイカ原産のコーヒー豆なの。貴重品なので物凄く高価らしいわ。だけど其処で採れるコーヒー豆より日本が輸入している量の方が遥かに多いんだって」 「え、えっー!?」 「でも、さっき言ったのは単なるインターネットの噂だけどね」 私があまりに驚いたからだろう。 橘遥さんはそう付け加えた。 ジャマイカにあると言うブルーマウンテン。 その山の決められた標高によってその名誉ある名前が付けられそうだ。  その時。 事務所のドアがノックされた。 「どうぞ」 社長は中に入るように言っていた。 現れたのは、グラビアから抜け出たような女性だった。 (素敵……) 私は一瞬声を失った。 (きっとモデルさんよね。それともさっき言ってた読者モデル?) 私はただうっとりと、この女性を見ていた。  「早速だけと、コンポジ、持って来た?」 でも社長は平然としていた。 「コンポジはね……、コンポジットの略語で、プロフィール写真とか、宣伝材料写真とか言うのよ」 私に耳打ちするように橘さんが言った。 コンポジとは、どうやらモデルの必須アイテムのようだ。 オーディションの時などに持ち歩き、自分を売り込むために何部も用意しておく物らしい。 彼女は早速、それを提出した。  「ダメだよ、こんなのじゃ」 社長が呆れたように言った。 「私は貴女が、モデルをやりたいって言ったから此処に誘ったのよ」 私から見たら何の落ち度のない彼女のどこがいけないと言うのだろうか? 私は首を傾げた。 「どんなコンポジなのか見たいって顔だね」 橘さんはそう言いながら、社長の手からそれを譲り受けて私に見せてくれた。 「格好いい!!」 私は思わず叫んでいた。 何故これがダメなのか解らない。 其処にあったのはグラビアアイドルより更に素敵なポーズで決めた写真だった。 「それがそもそもダメなのよ」 社長はまず私に向かって言った。 「みんなも聞いてね。主催者側はそんなの求めていないの。自社の製品をいかに上手く表現出来るかってことよ」 「社長が言いたいのはね。シンプルな着こなしで、どんな要求にも応えられる柔軟性かな?」 「そうその通り。これだけ決めてしまったら、イメージがかえって沸きにくいのよ」 そう言われるとそんな気になった。 でも、頭の中は疑問だらけだった。  「それに、この格好だと目立つわよ。それとも痴漢されたいの?」 社長が言った。 私は素直にスタイル抜群の彼女を素敵だと思っていたのに、プロの目は厳しいらしい。 私には都会的なセンスで格好良く見えるのに…… (この人と比べたら私の服装なんて……) そう思っていた。 「何故この人が此処に居るのか解る?」 社長の質問に女性は首を振った。 それは私も疑問だった。 私は何故此処に居るの? 何故社長に声を掛けられたの? 私は密かに聞き耳を立てた。  「貴女からみたら、普通の支度でしょ? でも、清潔そうな雰囲気を出していると思わない?」 社長の問いに女性は頷いた。 「私って清潔そうに見えるのですか?」 私の問いに今度は社長が頷いた。 「まるで無垢そのものって感じよ」 誉められたのか、田舎者だと言われたのか解らずに私は戸惑っていた。 「勿論誉め言葉よ」 私の気持ちを察したように社長が言った。 「そんなー、ただのリクルートスーツです」  「だから声を掛けたのよ。中に着ていたカーディガンの袖を伸ばして指先を出したでしょう? あれって、萌え袖って言うの。意識してやった?」 美魔女社長の言葉に慌てて首を振った。 萌え袖なんて知るわけもないからだ。 「自然に出来るなんて凄いわよ。それと、就活のために東京に来たのだと判ってね」 そう言いながら社長は私の胸元に目をやった。 私は何気に其処を見てびっくりした。 さっき面接した時の受付ナンバーが書かれた名札が其処にあった。 胸がドキドキして、顔が赤くなるのが判るほどだった。 私は社長の言葉に舞い上がっていたのだ。 額に手を当てると熱くなっていた。 「あーあ、だから田舎者はって言われてしまいますね」 私は頭を掻いた。 理由は解っていた。私はアイツに逢いたくて堪らなかったのだ。 だから全てが上の空だったのだ。 新宿駅で下車した本当の理由は、タレントに会うためじゃない。 でもそのことは誰にも隠しておきたかった。 特にアイツとの成り行きを知っている橘遙さんには尚のことだった。 「名札を返しに行かなくちゃ。でもまだ間に合うかな?」 私は気付かれないないように言ってみた。 いただいた封筒を開け資料を確認すると、終了間近だと解った。 「どんなに急いでも間に合いそうもないので、今日はやめにして明日一番で行こうかと思ってます。 満員電車の体験もしておきたいし」 私は軽く言った。  「みんな知ら過ぎるのよ満員電車の痴漢の怖さを」 突然橘遥さんが言った。 「私ね。痴漢電車と言う作品……じゃないわね。ボツになったエロいのがあるの。例の監督のだけど」 橘遥さんは、見本と書かれたディスクをバッグから取りだしプレーヤーの中に入れた。 其処からの映像に皆声を失った。 「リアリティーを追求するって名目で、本物の電車の中なの。勿論許可なんか取ってないわ」 隠しカメラは橘遥さんの体に数個付けられていたそうだ。 「この時役者は一人だったのに、四方八方から手が伸びて……。私が何も対処しないから、みんな何をしても良いと思ったらしいの。でも此処を見て」 橘遥さんの指先にあったのは本物の犯罪だった。 カメラは当時騒がれていた満員電車での切り裂き魔をとらえていたのだ。 模倣犯も多発したこの事件は、私の高校でも話題になっていたのだ。  怖い…… 怖過ぎる…… これが満員電車の実態だった。 橘遥さんのカメラは、更に近くの女性の被害も映し出していた。 その人は、滑り込みセーフで橘遥さんの後に付いて乗車したとのことだった。 でもそれは女性専用車両ではなかった。 橘遥さんは、監督の命令で乗った電車。 だから被害届けは出せない。 またそんな撮影自体違法だから映像も出せなくなってしまったのだった。 「その人には本当に悪いことをしたと思っている。だって被害者がいるのに見てみぬ振りをするしかなかったのよ。それに私が彼処にいたから、同じ電車に乗って来たのだからね」 「本当は今からでも遅くないと思っているんじゃない? だから常にバッグの中にいれてる?」 社長の言葉に橘遥さんは頷いた。 「でもあの監督じゃあねー」 橘遥さんがそっとため息を吐いた。  「監督はね、自分が逮捕されることを恐れたの。だから暫く大人しくなったけど、ハロウィンであれでしょ?」 橘遥さんは呆れたように言った。 でも、私はその言葉で更に心臓が跳ね上がった。 呼吸が困難になり、動悸も激しくなった。 私はハーハーと息をしながら、その場で蹲った。 「過呼吸症候群かも知れない。パニック障害の一つよ」 橘遥さんが急いで私の元に駆け付けてくれた。 「この子はハロウィンの日に私に間違われて拉致され、スタジオで監督達に犯されそうになったの!!」 橘遥さんの声が何故か遠くに聞こえる。 気付いた時には、私はソファーに寝かされビニール袋で呼吸をさせられていた。 「応急手当てはビニール袋に自分の息を吹き込みそれで呼吸すること」 橘遥さんが私に諭すように言った。 「今の説明だと過換気症候群かも知れない。精神的な病気なの」 社長が付け加えていた。  「ごめんなさい。まさかこんなことになるなんて思わなかったから」 橘遥さんが申し訳なさそうに言った。 「アンタがこんな格好で来るからよ!!」 社長が面接に来た女性を叱った。 「本当にその格好じゃ男性の餌食になるわよ」 顔だけを女性の方に向け橘遥さんが言った。 でもその手は私を擦り続けてくれていた。 「ごめんなさいママ」 その女性は突然言った。 「え、ええっー!?」 私はその一言でソファーから飛び起きた。  「ママはやめて。私はアンタを産んだ訳ではない」 「解っているよ、ベビーシッターだって。でも私にとったらママはママだよ。だって何時も一緒だったでしょう」 「しゃ、社長。一体幾つなんですか?」 話に割って入るように私は言っていた。 「これ、女性に歳は聞かないの」 橘遥さんはそう言いながらも、こっそり耳打ちをした。 「え、ええっー!?」 私は更に驚きの声を上げた。 三十路だと聞いていた社長はアラフォーに限りなく近かったのだ。 「私の母とそんなに変わりないのに……」 私は、社長を美魔女と言った橘遥さんの言葉を思い出していた。 (凄い……私もこんな風に生きてみたい) それは私に目覚めた小さな憧れだった。 私の母は四十代前半。 でも祖母の介護と子育てに追われやつれていた。 だから私は母に、少しでも楽をさせてやりたかたのだ。  社長は私が落ち着くのを待ってから、美に関する情報を色々と話してくれた。 美しさの秘訣は朝の行動にあると言う。 それが一日を決めてしまうと社長は言った。 夜具の中で体を捩り徐々に目覚めさせてから、ベッドの縁に掴まりスロースクワットをする。 スロースクワットは身体にあまり負担をかけずにそれでいて芯に効くそうだ。 やり方は、ベッドの手摺に手を掛けてゆっくりと腰を屈ませる。 この時、頭は真っ直ぐにして膝で屈伸すること。 頭のてっぺんに手を置いて、上に引き上げるイメージにすれば体は前に屈まないと言う。 それに美容の一番の大敵は朝の食事を抜くことで、どんなに忙しくても必ず何かを身体に取り込むそうだ。 それは母にも良く言われていた。 少しでも寝ていたいのに容赦なく叩き起こされた後に…… そう思えば、私のこの恵まれた身体は母が作ってくれたようなものだ。 感謝しても足りないと思った。  そうなのだ。 この体だから、社長は私に声を掛けてきたのだ。 今ぷにょ系のぽっちゃりアイドルブームだと聞く。 ぷに子とか言われているらしい。 確かに痩せすぎよりいいかも知れないけど。 ぷに子と呼ばれる条件は、身長百五十五センチなら体重は五十二キロから六十四キロの間だと言う。 私は標準体重を少し下回るくらいの、健康体だったのだ。 つまり、ぷに子にもスレンダーにもなれる体なのかも知れない。  『磨けば光る原石』 だと、社長は言った。 でもぷに子の条件を聞いた時私は驚いた。 母が百五十六で五十キロだったからだ。 私は母を痩せていると思っていた。 でも後二キロでぷに子だなんて…… 信じられないのだ。  社長は他にも貴重な話をしてくれた。 それは痩せの大食いの秘密だった。 最近解ったことで、体内ホルモンのGLPー1が関係しているらしいのだ。 元々誰でも持っているホルモンで、人によっては太らなくしてくれるらしい。 そのホルモンの放出先が小腸の下の部分にあるらしいと言うことも判明したようだ。 つまり、そこまで辿り着ける成分。 食物繊維が最も有効だと言うことが判ったのだ。 数ある野菜。 そのなかで最も含まれているアボカドだと言うことだ。 その他ヒジキやカボチャの煮物にも豊富に含まれているらしい。 アンコもその一つだ。 私はアンコをそのまま凍らせて食べるのが好きだった。 (理に叶っていたのかもしれない?) 私は素直にそう思った。  それともう一つ、大切な痩せる成分はEPAだと言われた。 これは青魚に多く含まれているものだ。 特に鯖が一番だと聞いた。 だからかと思った。 母は海鮮工場で魚をさばいていた。 残りの頭などは良く食卓にのぼる。 『此処に含まれている成分は頭にも体にも良いの。だから残さないで食べてね』 母は良くそう言っていた。  それはDHAのサラサラ成分だと言うことだ。 これも青魚に多く含まれているものだ。 これは鮪の頭が一番だと聞いた。 レモンなどのクエン酸より効くそうだ。 母は海の側に生まれたことを感謝していた。  アボカドとマグロ。 それは最強の組み合わせなのかも知れない。 痩せるホルモンGLPー1と食物繊維にEPAとDHA。 それらの組み合わせによって太り難くなる体になっていくようだ。 鯖の缶詰めは手頃な価格で、栄養豊富。 ダイエットには欠かせない品物になる予感がしていた。 鰯や鯖などを缶詰めにすると栄養価が高まると聞いた覚えがある。 私は無性に母の手料理が食べたくなっていた。
/12ページ

最初のコメントを投稿しよう!