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ポカンと立ち尽くした凛。
多田はゆっくり腰を上げ数歩で凛の前に立った。
「おつかれさん…」
ぽん、と温かい手が頭に乗った。
その柔らかな声で、涙腺が決壊した。
多田の短い労いの挨拶に、色んな気持ちが乗っているのがわかったから。
お疲れ様を返すこともままならずに、凛は多田のコートの裾を握りしめた。
「…」
その手を多田が取って、ゆっくり歩き出す。
俯き加減の凛の顔は、背の高い多田からは見えないだろう。
多田が待っていてくれた事で、一気に凛の張り詰めていた物が解けていく。
目に涙を溜めて、それに気づかれたくなくて黙々と歩く。
凛が話さなければ、二人の間の会話はとたんに難しくなるけれど。
「…牛丼…」
多田が前を見たまま、ボソリと言った。
「腹減ったなぁ…凛さん、テイクアウトして…食べませんか?」
明日も早いのに、テイクアウトして晩御飯を一緒に食べてくれるのか。
「…うん、チーズのやつ」
食欲なんてないけれど。
多田がもう少し一緒に居てくれるなら。
多田は黙って凛の手を引いて。
さらにすぐに目の前の牛丼チェーンでチーズ牛丼と多田の分の牛丼と味噌汁を買い、それを手に凛の部屋に歩いた。
部屋に入るまで一言も話さずにいたけれど。
繋いだ手が大丈夫だと思わせてくれた。
部屋に入ると暖房のスイッチを入れ、多田に先に手洗いを済ませて貰いながら牛丼を並べる。
もう涙は引っ込んでくれた。
コートを脱いで、多田のコートを並べてかける。
大人と子供サイズが並んでなんだか可笑しい。
多田が手洗いから戻ってきた。
振り返った凛を、テーブルの前に腰を下ろし多田が捕まえた。
コロンと転がる様に多田の膝の上。
ぽすっと頬が多田の胸についた。
「…」
「匡平さん、牛丼…冷えちゃうよ」
また、涙が戻って来そうで凛は小さく囁いた。
「…そうやね」
そう返事をしたのに、背中に回った多田の手がぽん、ぽん、と凛の背中をあやす。
「…」
「…」
多田は何も言わないし、聞かない。
凛はすり、と多田の胸に頬を押し付けて長く息を吐いた。
「…匡平さん、ありがとう」
「…俺が…土曜日まで、待てへんかっただけやから」
日曜日ではなく、土曜日と言った。
ほんの少しの違和感に、凛が顔を上げる。
「…週末、泊まりに来ませんか…凛さんの嫌がること…絶対、せぇへんので…ネットで寝袋、選びたい」
お泊まり…お泊まり!!
「…いき、行きます!」
即答した自分に驚きながら、また胸に戻る。
島崎との一件が、ちょっと遠くに追いやられた。
多田のお泊まり発言の威力は結構な物だ。
「…」
「…その、凛さんの…思い切りの良さも…底抜けに明るい所も…何でも頑張る所も…俺は前から、ええなぁと…思てました」
静かな部屋に、多田の声が穏やかに満ちる。
ただ、お泊まりの誘いに答えた事を指すわけではないと凛にはわかった。
今朝の事を、大丈夫だよと…気にしなくていいよと言ってくれているのだ。
「…うふふ」
多田が見ていてくれる、自分の頑張りを知っている。
…もう、戻らない失敗も、受け止めた不快な気持ちも忘れよう。
「牛丼ー!さぁ、匡平さんガツンと食べましょうっ」
いつもの笑顔を取り戻した凛が顔を上げた。
お茶いれますねと微笑む顔を穏やかに見つめた多田が、目を細めて小さく息をついた。
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