熊さんとの攻防戦

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「…心配いらないですよ、匡平さん」 いつもなら、マンションの下まで車で送る多田が部屋の前まで着いてきた。 「…うん」 島崎からの報復を気にしているのだ。 「匡平さんこそ、気をつけてくださいね」 さすがに島崎も暴力を振るったりはしないだろうと思いながらも、凛も自分より多田が心配だ。 部長が、上手く話せば…凛に報復する確率は低いとも思う。 多田が、小さく息を吐いてドアの前で凛をそっと抱き寄せた。 「…もう、ポケット入れて…仕事連れてこうかな…」 半分真剣な呟きに吹き出す。 クスクス笑う凛を、安定の無表情で見つめながら多田が名残惜しそうに腕を離した。 「何かあったら…」 「はい、すぐ連絡します。もう秘密は無しですからね」 多田が頷いて踵を返す。 多田がエレベーターに乗るまではと、凛は鍵を開けるのを待ってドアの前で背中を見送っていた。 エレベーターのボタンを押した多田が開いたドアに視線を向けたまま動かない。 「?」 ゆっくり振り返った。 そして何故か戻ってくるではないか。 「匡平さん?どうしたの?」 目の前まで来た多田が、凛の手首を掴んだ。 「しばらく、ウチおいで…夜、訪ねてきたら困る…ちょっと店まで遠なるけど…ウチ、おいで」 静かな外廊下に、真剣な多田の低い声が小さく響いた。 多田の出勤時間が早いのは島崎も承知だ。 多田の家に来るなら夜。 もしかしたら凛は朝も危ないと思ったのだろう。 凛の部屋を島崎は知らないだろう。 けれど同じ会社だ、調べられると昼間多田は心配していた。 夕方になると、輪をかけて無口だった多田はずっと考えていたのだろう。 「…」 「…」 凛は鍵を開けて多田の手を引いた。 電気をつけて多田をテーブルの前に座らせる。 そしてクローゼットを開けた。 一番下の奥の方から、旅行用のキャリーバッグを引っ張り出した。 数日にしろ、女子が本格的に生活する場所を変えるという事はそれなりの用意がいる。 冷蔵庫の紅茶のペットボトルをグラスに移し、多田の前に置いてから、凛は本格的に準備を始めた。 部屋着、数日分の着回しのきく衣類、下着、メイク用品。 そしてPOP用のペンと紙をひとまとめ。 スキンケア用品も忘れてはいけない。 後は…日持ちのきかない冷蔵庫の作り置きと、食材は紙袋へ。 そのあたりで、黙って見ていた多田が 「…ごめんな…大変やな」 とボソリと言った。 「 うふふ、大丈夫」 さあ行きましょうと促すと、多田が当たり前の様にキャリーバッグと紙袋を手に取った。 「持ちますよ?」 「いや…」 なんだか、申し訳ないと背中に書いてある。 多田が先に歩き、結局20分程で多田の家に逆戻りした。
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