新たな生活

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脳は混乱しているのに。 身体はいつものように多田の帰りを待って動く。 白身魚のムニエルの予定がオムライスに変更されたけれど。 洗濯物を取り入れて、お風呂を洗って。 悲しい。 多田の母親は、多田が本気にならないと言った。 多田の母親に受けいれを拒否された事はショックだけれど。 多田が自分といる時間を遊びだと思っているとは思えない。 決して派手な愛し方ではないけれど。 毎日の生活の中で、確かに大切に愛されている自信と自覚があった。 どうすればいいのだろう。 もちろん、別れるなんて嫌だ。 それでも、多田にとって母親は大切な人のはずで。 その人が凛を認めていないとなれば、この先ことある事に辛い思いをするだろう。 それは凛だけではない。 もしかしたら、多田の方が辛いかもしれない。 「ただいま」 「おかえりなさい」 いつもと同じ時刻に、多田は真っ直ぐ帰って来た。 母親から、連絡は無かったのだろうか。 …無いのかもしれない。 鍵を持たない彼女が、多田の勤務中にドアの前にいたのだ。 多田の仕事の休みを把握していないと言う事だ。 「匡平さん、今日は卵を消費しなきゃいけなくてオムライスですよー、お風呂どうぞ」 「うん…ありがとう」 凛は母親の来訪を言えずに微笑んだ。 多田は知らない。 いつもと同じ穏やかな雰囲気でバスルームに入っていく。 どうすればいいのか答えを探しながら、夕食の準備の仕上げに取り掛かった。 美味しいと、毎夜変わらずに感想をくれる。 愛しいと思う。 「匡平さん。明日はムニエルですよ」 「ああ、前に作ってくれたあれ」 「はい」 「俺、あれ好きやで」 多田はよく、凛の作った物を好きな味だと言う。 たいして得意ではない料理だ。 多田に夕食を出すのに、随分レシピも検索した。 それを分かってくれているから、こうして褒めてくれる。 …優しい人だ。 寝支度を終えて二人でベットに入っても、凛の心は落ち着かなかった。 ただ、多田にその心の内に気付かれない様に務めて微笑んで過ごした時間。 多田の温かい胸に頬をつけて抱き込まれ、ほっと息をついた。 これで表情を取り繕わなくて済む。 「…凛さん、仕事…順調?」 眠る前にしばらく、二人でたわいない話しをするのが日課になっていた。 こんな面白いことがあったと話すのは専ら凛で、昨日までもそうで。 だからすぐ気付いた。 多田が僅かな凛の心の揺れに気付いたのだと。 「…もちろん、今日は小さなPOPばかり描いて、ちょっと疲れました」 多田の身体に腕を回して、ぐりぐりとその胸に顔を押し付けておどける。 多田の笑った気配がして、ぽんぽんと背中をあやされて。 「じゃあ…はよ寝な…明日も仕事やろ」 「はい…おやすみなさい」 「…うん、おやすみ…しんどかったら起きんでええよ…弁当も無理せんでいいから」 無性に泣きたくなった。 …負けるもんか。 まだちゃんと挨拶すらしていないのだ。 諦めるなんて早すぎる。 それに、凛は彼女の言った言葉に分かりましたとは答えていないのだ。 再来週、彼女はまたドアの前にいるのだろうか。 その時、変わらずにここに居る自分にどんな顔をするのだろうか。
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