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翌日、仕事を終えた凛は…家とは逆の方向に向かって歩いていた。
この周辺にホテルはひとつだ。
主要の駅から少し外れている駅前には、単身で滞在する規模のビジネスホテルがひとつある。
歩きながら考えていた。
どうして多田の母親はホテルをとったのだろう。
彼女は凛の存在すらしらなかったのに。
普通は多田の部屋に泊まらないだろうか?
仮に凛の外見が気に入らなかったとして。
それなら、凛と一緒に部屋に入り…多田の帰りを待って彼を諭そうとするのではないか。
多田が年越しを独りで過ごして来たことが、何かこれと関係している様にも思えたのだ。
多田は母親がこちらに出てきている事を知らないのだと思う。
それにも違和感があった。
楽しみにしているキャンプが迫っている。
せめて、多田の母親に彼と別れる意思がないことは伝えたかった。
多田に話さ無いことは隠し事だけれど。
言わないとしても、自分の中でしっかりと整理をして。
すっきりとした状態で多田とキャンプを楽しみたかった。
フロントで訪ねても、きっと個人情報は教えてくれないだろう。
そもそも、彼女のフルネームさえ知らない。
多田と言う苗字はポピュラーだけれど、同じホテルにそうそう何人も泊まるほど多くはないだろう。
一か八かだ。
凛は少し暗い感じのする自動ドアを潜った。
「多田様でございますか」
案の定、フロントに立っていた初老の紳士は少し困った表情を浮かべた。
「はい、無理を言ってすみません。多田匡平の知り合いがお話ししたいと言っていると伝えて頂けませんか?…女性の多田さんです」
部屋を教えろ、電話番号を教えろと無理を言っている訳では無いので、その紳士もそれならとロビーの端のソファーを凛に進めた後、カウンターの受話器を取り上げた。
少し離れた場所から、その紳士と電話の先の相手が会話しているのをみていた。
内容までは届いてこない。
しばらくして、紳士が受話器を置いた。
ゆっくりと教育の行き届いた足取りで凛の前まで来ると、
「しばらくお待ちくださいとの事です」
良かった。
泊まっていたのはやはりここだったのだ。
しかも、下りて来てくれるみたいだ。
ありがとうございますと頭を下げて、凛は立ち上がった。
多田の母親は、5分程でおりてきてくれた。
エレベーターから少し離れた所に立つ凛を目にとめて、あの柔和な微笑。
「急にお伺いして申し訳ありません、ありがとうございます」
そう頭を下げた凛に、母親は小さく頷いた。
「向こうがわにカフェが入ってるの、温かい物でも飲みましょう」
彼女の出で立ちは、黒いロングスカートにシンプルな薄紫のニット。
その雰囲気はやはり、予測される年齢より若々しく見えた。
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