4

1/1
9人が本棚に入れています
本棚に追加
/6ページ

4

「どうしてそんなにびしょ濡れなのよ」 「雨が降ってたんだ」 「知ってる。雨はあなたの周りにだけ降ってるわけじゃないから。穴でも空いてるの?」  彼女が指差す僕の右手にはグシャグシャに丸められた折り畳み傘が握られている。彼女が手にしているのも折りたたみ傘だったが、身につけている服はまったく濡れていなかった。もしかすると、雨がひどかったのは僕の周りだけだったのかも知れない。 「付いてきて。時間がないから急がないと」  体とは不釣り合いな大きさのスーツケースに連れられて、有無を言わせない様子の彼女が先を歩く。  航空会社のカウンターが並ぶエリアを離れると、様々な店舗が営業するエリアへと入っていった。レストランやブランドショップ、土産物屋などには見向きもせずに、確かな足取りで進んでいく。既に行き先は決まっているのだろう。  いざ本人を目の前にしてみると、何から話を始めれば良いのか、どんな話をすべきなのかに戸惑ってしまう。頭の中で思考が交錯し、言葉を失くしてしまった僕は、会話の口火を切ることが出来ずにいた。 「ちょっとこれを持ってて」  立ち止まった彼女がスーツケースから手を離した。日本中のどこででも手に入るカジュアルウェアの店の前だ。店内へと入って行く彼女の後を追おうとしたが、入口付近にいた店員が迷惑そうな顔をしていたので店外で待つことにした。びしょ濡れで大荷物の僕だから、仕方のない話かも知れない。  店内の彼女は、棚に並べられた品を躊躇なく手に取ると、買い物カゴに放り込んでいった。そんな彼女の潔さは見ていて気持ちが良い。僕のようにあれやこれやと思い悩んで、結局買わずに店を出るという買い物スタイルとは全く違った。色んなことにいちいち悩んだりすることは、人生の無駄遣いだと考えているように思える。あんな生き方が出来ればいいのにと、僕も時々は思うのだ。僕に不足している決断力を確かに彼女は持っていた。  一通り店内を回った彼女は、スーツケースの見張り番をしていた僕に近付くと、持っていた買い物カゴを手渡した。カゴの中に男物の下着が入っていたことで、彼女がこの店に入った目的と服を放り込む際の潔さの理由が分かった。  事前に僕の確認を取るべきだと言いたかったが、出発前の貴重な時間を僕の為に費やしてくれたのだし、自分が選んでいたらこんなに短時間で済ませることなど出来なかっただろう。口論を始めて時間を無駄使いするわけにもいかない。  スーツケースの見張りは彼女に託し、言われるがままにレジへと向かった。先程の店員は、びしょ濡れの僕が店内に足を踏み入れても迷惑そうな顔はしなかった。歓迎しているようには見えなかったが、迷惑そうにされるのと較べれば上出来だと言える。単純な引き算をするならば、大荷物の客が苦手だということになるが、空港という場所柄を考えれば店員としては失格だ。  会計を済ませると、レジ係に断って試着室で着替えをさせて貰う。購入済みだから文句はないだろうが、試着室で下着や靴下まで着替えるのはなんだかマナー違反のように思えた。  店を出る際、例の店員が今度は笑みを浮かべて僕を見送った。僕の知る限り、この店員にできる挨拶としては最上の部類だ。またのご利用をお待ちしておりますと口にしてはいるが、僕が視界から消えて無くなることを嬉しがっているようにしか思えなかった。  ただでさえ気が滅入っているのだから、追い打ちをかけたりするのは止して欲しい。
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!