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電車で乗り合わせた賢一が、居た堪れないような表情で凝視している。乗り合わせてから一切話しかけて来ない。言いたい事は分かる。きっと機嫌の悪さを察知している。機嫌が悪い所では無い。腸が煮え繰り返っている。
「…」
「あのさ、俺ら“おはよう”も交わしてないわけだよ。もう喋っていいか?…おはよ。なに、朝からどうしたんだ?」
触れてはいけないものを触れているというのは理解しているらしく、慎重で優しいトーンで問いかけてきた賢一。
「俺は生きてきて自分からしたキスを拭われた事なんて一度も無いんだよ」
「はっ?キス?まぁ…だろうな。お前にされた奴は皆揃って赤面するのが目に見えてるけど」
「あの野郎……拭いやがった」
「おはよう」と言い返す余裕もなく、自分でも剣幕だと思うくらい低い声で絞り出した。
「あの野郎…って、もしかして倉木の事?って事は、キスしたってことか!?チュー!?しかも拭った?」
賢一は頭の中で順を追うようにつき詰めると、混乱しつつも最終的にたどり着いた出来事に呆気に取られた様子だった。
「倉木の頬が目の前にあったからキスしただけ」
「何を“そこに山があるから”みたいな感じでキスしてんだよ」
「おい、厳密には“そこにエベレストがあるから”だから」
「へぇ、そうなんか。…って、何で詳しいんだよ。しかも今はそんなのどうでもいいんだよ!」
ジョージ・マロリーの名言を丁寧に訂正する余裕は出てきたが、それでも腹の中が気色の悪い何かで覆い被さっている状態だった。
「倉木はお前のこと好きだと思ってたんだけどな〜」
「いや?俺のこと本気で好きらしいよ。けど、勝手に好きで居るから俺で弄ぶな、だとよ。弄んでんのはお前だろって言いそびれたのも腹が立つ」
「遊んでるって勘違いしてんじゃねーの。てか遊びじゃねーの?」
「揶揄ってねーから。告白できそうな雰囲気作りって事だよ。俺だって本気で倉木の告白待ってんのに」
「それにしても聖がこんなにムキになる人間だって初知りだわ。しかも男相手に。…結局のところ、何に苛ついてんの?」
核心を突くような賢一の台詞。訝しげな表情の賢一と目が合うが、窓の外に視線を移した。
「…さぁ。全部かな」
賢一は納得のいかない様子だが、それ以上は何も聞いてこない。
分かっている。俺が一番苛立ちを覚えているのは、こんな些細な事で感情を揺さぶられている自分だ。一人の平凡な男に躊躇なくキス出来た事も、そんな男の辿ってきた過去を知れたことも無駄だと思っていない。寧ろ、聞いた後からもっと知りたいと思ったのは本気だった。
何故だか分からない。なのに、倉木が気になって仕方が無い。
本来の目的は自分の規則を破られた事で好きだと言わせたかったはずだ。そして向こうは好きだと言ってきた。それなのに俺に向ける好意をもっと見たい。
「賢一が言ってた恋しちゃったんだー、ってやつ、あれって気付いてないんだったよな」
曖昧な音程で例の歌の歌詞を言う。まさかそんな事を言うとは思わなかったのか、賢一が大きく目を見開いたのが分かった。
頭の端で残っていた賢一の言葉が、今になって現実味を帯びた。そうじゃなかったとしても、自分が認めてしまえば真実に変わる。それが蕾だったとしても、時間が経てば花になって咲いてしまうような気もする。そして、こんなにも表に出るような感情に嘘は吐けないような気がした。全て曖昧なのは自分自身が自覚するような恋をしたことが無いからだ。
「え…ま、マジで?」
「可能性の話だよ。でもこんな気持ちの悪いまま放置するなんて無し。この気持ちが分かるまで倉木には付き合ってもらうから」
「振り回される倉木可哀想~。…知れた後はどうすんの」
「流れに身を任せる」
「またかよ。それやめろ」
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