春雨の海

1/1
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 安いビニール傘に跳ねる、雨音が好きだ。  芽吹き始めている若草も、咲き始めた桜も、少しばかり雨の衣を纏っている。 「おつかれ、またね」 「うん、ばいばい」  駅に向かって早足でかけていく友人たちを見送って、私は空を見上げる。  雨は好きだ。雨が降る直前の空気の匂いも、こうやって包まれる雨音も好きだ。  だから、私はゆっくり歩く。  雨が好きだから、ゆっくり歩くんだ。それ以上の意味はない。  腕時計に視線を落とすと、時刻は七時を回っていた。それでもまだ闇は落ちず、色温度の高い、青染めの街並みが広がっている。  駅に向かう足を止めた。少しだけ、立ち止まった。ぱらぱらと、雨音が包み込んでくる。  漏れかかるため息を飲み込んで、向かう方向を変えた。駅から徒歩で五分の海へ行こう。  雨に抱かれて、海へ行こう。  水音が好きだ。何故かは判らない。母親の体内にいたころの、あの音を思い返しているのかもしれない。記憶にもない、どこか深いところで。  水が好きだから、私は海へ向かう。  それ以上の意味はない。  絶え間なく水面をたたきつける雨粒は、喜んでいるのだろうか。  一度は離れ離れになって、違う人生を歩んできた水同士が、また海で巡り会えて、喜んでいるのだろうか。  目を閉じて、水音に耳を済ませる。  安らぐ気がした。 「やっぱりここに居た」  後からの声に、私は振り返らない。ただ目を開けて、海を見た。  雨粒とともに、波に跳ねた雫は踊っている。 「ごめんな」  すぐ傍で声がした。振り返ってなんてやらない。  私は雨が好きだからゆっくり歩いて、水が好きだから海へきた。それだけのことだから。  傘をにぎっている手とは逆の手に、暖かい違和感を覚えた。  手を握られた。  雨粒が傘を叩く音が好きだ。  泣きそうなぐらいに、その音が好きだ。  私ははじめて隣を見上げた。  見上げる角度も、動作も、体が覚えている。  困ったような笑顔。  私は視線を海へと合わせた。  巡り会えた水同士は、楽しげに踊っている。  出来るなら、この頬を伝っていく馬鹿な雫も、一緒に躍らせてあげたかった。 「ねぇ」 「ん?」 「雨粒と海って、巡り会えて喜んでるかな」 「なにそれ?」 「どう思う?」 「とりあえず俺は、今、嬉しい」  私は、安いビニール傘に跳ねる、雨音が好きだ。  私は、水音が好きだ。  私は、海が好きだ。    それから、私は多分、この馬鹿な男も好きなんだろう。 fin.
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!