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ひとは雫くんの噂を聞けば変わったひとだと言う。外見を知ったひとは、美しいひとだ、と言う。そして、ほんとうによく知っているひとは底なしの奇才だ、と言う。
宵に染まるころ、雨にけむる歩道橋の上で、描きつづけている彼は都会から弾かれたように浮いていた。
傘をさし、行き交うひとたちは、心配、不審、興味、困惑、無視など、個々の反応を見せていて、私が抱いた感情とはまったく違っていた。周りの反応を気にもとめず、彼は鉛筆を握り、没頭していた。ゲリラ豪雨は、ダダダダ、と叩きつけるよう豪快に歌う。その乱暴さを気にもとめない彼は、世界から完全に切り離されていた。孤高の空間にいることを、純粋に羨ましく思った。
ここを死に場所と決め、ただ楽になりたい一心でやってきたというのに、水をさされたような気にもなった。
傘をかざしても彼はこちらに気づかない。
習慣で持ってきてしまった傘は、もういらない。
受け取ってくれれば、その勢いのまま歩道橋から飛び降りようと思っていたが、彼はかたくなにこちらを見なかった。
だから、遮ることで気づかせようと思った。
けれどもその期待は報われず、彼は一心不乱に描き続けてラフスケッチに夢中。興味を引けたのは、一瞬だけ雨脚が弱まったとき。
濡れそぼった瞳は、訝しげに私を見た。
「……何? くれるの?」
「うん、あげます」
「それよりも、……身体を貸してほしい」
雨がふたたび強くなる。
雫は光を含み、それを味方にしていると錯覚するほど、美しいひとだ、と思った。そして、どうして、と思った。どうして分かったのだろう。一見して分かるほど、私は死にたがりの顔をしていたのだろうか。頷くと、彼は着ていたレインコートのフードを被って、私の手を引いた。期待と恐怖がまじって、全身がこわばった。
それでも何度でもこの場面にたどりつけば、私は同じ選択をする。
傘の縁からこぼれ落ちた雫たちは、しずしずと流れていく。瞬く間にさってゆく、つかまえようのない淡い粒をみながら、どうせ死ぬのだから彼が何者でももうどうでもいいか、と思った。
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