波紋の雫は六月に流れて

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* 「遠慮なく脱いで」 「……脱がない、という選択肢は?」 「ない」  築浅でシンプルなマンションはエレベーターがなく、むき出しのアスファルト階段を登った。濡れた床からペトリコールの匂いがした矢先、入った部屋は塩素の匂い。場所が変わったのだと知らしめる匂いに包まれ、羞恥をどこかへ追いやる。玄関とも呼べない狭いスペースで、ブラウスのボタンに指をかけた。 「待って。……なんでそこ?」 「……服を脱ごうと思って」 「は?」  彼は焦ったように抱えていたスケッチブックをざっと置いた。 「……玄関で脱ぐものは靴しかないけど、どーゆーこと?」  彼はしゃがみ込んで肩を小刻みに揺らし始めた。 「っ、……そりゃ雨の中でも、描き続けてるクレイジー野郎だけどさ」 「……体を貸してって言われたから、てっきりヌードモデルかな、と思って……」  彼は限界と言わんばかりに声を上げて笑った。 「はぁー? どんな昭和映画よ。いきなり連れてきて脱げとか、ポルノを通りこして通報だよ」 「……違いますか?」 「はい、違います。……ってか、分からない?」  大きな手が彼自身を指差す。小指の横が黒鉛で汚れていて、その仕草に既視感を抱く。けれど、名前は出てこない。 「……あー、」 「覚えてないって正直に言っていい」 「すみません」 「……では、4年ぶりの自己紹介。高校のとき、図書委員で一緒だった鳴上(なるかみ)」  伏せたまつ毛に影ができる。繊細な、めったとない造形に感動していると、記憶が蘇る。  当番の日にカウンターの隅で、こっそりとスケッチをしていたひと。読んでいるひとは本の中に居るからいいと、抱えたスケッチブックには許可を取られていない横顔たち。マイペースと奇行の間で、生徒たちには白い目で見られていた。もちろん私も、出会う前からその話は知っていて、変なひとだと思っていた。顔を見て、予想していた外見とは違い、一瞬だけ見惚れた。そして、一緒の当番になったとき、何も言わずに、無心に描き続ける彼を見て、冷静になった。違う世界(ところ)に居るようで、近くに行けば行くほどよく分からないひとだと、彼について考えるのを止めた。  その後、彼は海外の絵画賞を受賞し、高校に来なくなった、らしい。らしいというのは、そこまで彼の情報に興味がなかったのだ。校舎にはなんたらデザイン賞の最優秀賞「鳴上雫(なるかみしずく)」の名前だけが校舎にぶら下がっていた。 「お、久しぶり、です?」 「はい、お久しぶりです」 「……鳴上くん、相変わらずだね」 「そりゃどうもね」  高校時代よりは処世術を身につけたようで、愛想笑いを浮かべた。そのまま、よいしょ、と靴とレインコートを脱ぐ。 「早く脱ぎなよ。……あ、靴ね、靴。服は脱がないでね、犯罪者はごめん」  スケッチブックを抱え、彼はぺたんぺたんと廊下を猫背で進んだ。 「私、帰ります。なんか勢いでついてきたって言うか、もう雨も止んだだろうし……」  死ぬことに最後のエネルギーを振り絞っているはずだったのに、なんでこんなところにいるのだろう。知らないひとだと思ったら、本当は顔見知りで、それもこちらは名前もうろ覚えで、向こうは知っているという、よく分からない状況で。  過去、中途半端に関わっていたひとなど、何を話せばよいか分からない。それに、ここにいても何にもならない。潔く飛んでしまわなかったから、こうなった。  今度はもう、場所は選ばないようにしよう。 「……そっちも相変わらず、だね」  鳴上くんは振り返って私を見た。 「何が、ですか?」  彼は、あー、と視線を落として、淡々と言った。 「誰でもいいから殺してくださいって、顔」
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