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いつからだろう、何の価値もない人間だと思い始めたのは。
最初は心の風邪のようなものだった。早く寝れば良くなる、食欲がないのは季節の変わり目だからで、何をしてもつまらないのは愛想笑いで受付をこなす、誰でも出来る仕事ばかりの無機質な日常に刺激がないからだ、と。言い訳に言い訳を重ねているうちに仕事に行けなくなり、楽しみが何ひとつないことに気づき、夜は眠れなくなった。
思い立ってマンションのベランダから見下ろした夜の町は光光としていて、私だけが真っ暗の中、ぽつんと取り残されているような、そんな気になった。
特に大きな失敗をしたわけでもない。かと言って、成功しているわけでもない。言われたことを言われるまま、こなしてきた。幼い頃は両親が望むように勉強をし、学生の頃は先生や友達の意見を聞いて風見鶏のようにその場に合わせて。仕事場では上司の指示を仰げば問題はなかった。
何不自由ない生活をしてきたはずなのに。
ずっと、私は、私自身を満足させる方法を知らなかった。
基準は周りの人間で、自分がどう生きたいかなど、考えたこともないし、人生にそんなものが必要だと思ったこともなかった。ただ、動物のようにお腹が減ったら食事をし、眠たくなったら眠りにつく。それすら、ままならなくなったのは、どうしてだろう。
「葉ちゃんは考えすぎ」
マンションの一室で、窓ガラスに散りばめられた雨粒を見ていると、雫くんがそう言った。
「……私、何か言ったかな?」
「うん、どうして、なんでって言ってた」
「そうですか」
「そうですねぇ。……あ、そのまま窓を見てて。肘とフェイスラインのアングルが変わる」
シュッ、シュッ、シュッと小気味よい芯が紙を滑る音。雨音とともに静かな時を埋める。あの日から、写し取られる対象として、私はこのマンションに通うようになった。鳴上くんは私が死のうとしていた事を見抜いていて、捨ててしまう命なら梅雨の間だけでも貸してほしいと言った。雫と呼べと言われて、そんなに馴れ馴れしくは呼べないと言ったら、くんでもつければ、と言われた。呼び方は指定するのに、他のひとのように精神が病んだことが常になった私にメンタルヘルス科に行けだの、気の持ちようだの、そんな余計なことは言わなかった。それは心地よいけれど、咀嚼できない歯痒さも残る。
「……ここは、静かだね」
「殺風景な部屋だけど、意外と高性能。昔、このマンションのオーナーがミュージシャンだったみたい。それで、防音かな。邪魔が入らず、集中出来る。それももう少し経てば意味ないけどさ……」
意味がない?
引っ越しでも控えているのだろうか。少し開いた窓から、美しい音がする。静寂に溶けた水音は、じめついた六月に波紋を呼び、この部屋では、一際、音が留まる。防音室は音を遮るのではなくて音を選んでいる部屋。
「……でも、」
長窓の縁からつらつらと落ちるのは、音。
「でも?」
「でも、ここは良い雨音が響いてるね」
「お?」
「何?」
雫くんは手を止め、ゆっくりと私を見た。
「それは、4年前の続き?」
「続き?」
「……夏目漱石はアイラブユーをなんと訳したでしょうか?」
「……月が綺麗ですね、だったかな」
「正解。……その続きは覚えてる?」
「……そんな話した?」
「しました。……思い出して」
名前を忘れていたのに、会話の内容なんて思い出せるわけもない。けれども、雫くんの記憶力の良さには驚かされる。いつもスケッチばかりしていて、彼とは本の話などしたことはなかったように思う。
「記憶にないよ。それよりも、私は雫くんが絵以外に興味があることに驚いてる」
「……俺は、驚いているって言いながら、全く表情が変わらない葉ちゃんに驚いてる」
「そう? ちゃんと驚いてるよ」
「分かんないねぇ……。でも、綺麗だよ」
「え?」
たったひと言に、ぎゅっと胸が締めつけられた。
怒られてもいいから、雫くんはどんな表情をしているのか、知りたくなった。彼を知れば知るほど、雫のように掴めない何かを追いかけているような気になる。
意を決し、視線を向けると。
彼は瞳を閉じて、雨音を聴いていた。
「生きていくのに重要なものは、ときどき見えない。それを理解しているからこそ、人は残すことに必死になるんだろうね。俺もしかり、さ。繊細な音は心が洗われるよ。この音を絵にすることができたら、どんなに素晴らしいだろうね」
瞳を開けた彼と目が合った。注意はされなかったけれど、曖昧に笑ってみせたあと、彼は窓に向くよう手で促した。誘導に従うと、また紙をなぞる音。
どうしてだろう。死ぬつもりで傘を彼に差し出して、雨音を遮ったのに。
今は、彼が全身で雨音を受け止め、思うまま表現している姿をもう少しだけ、知りたい。
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